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「守れないなら仕方がない」でいいのだろうか?

 今年もバイブルキャンプの奉仕をさせていただきました。今回は私にとっては初めてとなる青年キャンプの奉仕です。手探りの中、多くの奉仕者の皆さんに支えられながら、恵みの内に終えることができて感謝です。

 講師のY先生より、5回にわたってメッセージをしていただきましたが、どれも恵み多きメッセージであり励まされました。その中で青年キャンプということもありますが、恋愛・結婚についてのメッセージも語られました。Y先生はストレートに聖書的な恋愛・結婚観や性の問題について語られました。

 今の時代には本当にこのようなメッセージが必要です。何故ならば、たとえ信仰生活が長い青年と言えども、必ずしも聖書的価値観が備わっているとは限らないからです。おそらくY先生の語ってくださったことは20年も前なら、この世的にも受け入れられる内容であり、少なくてもクリスチャンとしては当たり前であるという内容です。しかし、以前は当たり前であったことが今日はたとえクリスチャンであっても「そんなの古い!」と言われるような結婚観の崩壊した時代です。

 私はいつも思わされることですが「今は時代が違うから!」などと言って聖書的価値観までも変えてしまうことは断じてあってはならないと思います。そんな事を言ってしまえば「聖書の福音はもう2000年も前の事だから、もうその救いは古いのだ!」という論法が成立してしまいます。聖書のみことばに「これは変えても良くて、これは変えちゃダメ!」なんて基準をどうやって決めるのでしょうか?全部が永遠に変わらない神のことばであるからこそ私たちは信頼し、信じることができるのではないでしょうか。

 確かに異性に関しての罪も、神様の御前では、他の罪と同様、一つの罪にしか過ぎません。神の御前には赦されるべき罪です。しかし、心と体のダメージは他の罪とは違う性質のものであり、信仰的にも神様から引き離そうとする力が大きく働く性質のものです。できるならば聖書的な正しい結婚を多くの方々にしてほしいと願うのであります。もちろん、そのような罪を犯したからと言って必要以上に自分を責める必要はありません。どんな罪もキリストの十字架の贖いによって赦されるからです。しかし「今の時代はどうせ守ることが無理な律法だから…」と考えるのは、はたして神様の御前に喜ばれる行為であるかどうかを皆が考えていく必要があるのではないでしょうか。

足を洗う必要

 今月は黄砂に何回か車がやられまして。タイミングが悪く、2回洗車するはめになりました。私はたまにワックスをかけるので(数か月に一度だけですが)、わりとあっさりきれいになるんですけどね。

 黄砂のような砂ぼこりは、あまり長い間放置しておくことはおススメしません。砂のような汚れは、何かの拍子で車体と物が接触した時(服や葉っぱなど)、塗装を傷つける場合があります。洗う時も、いきなり洗うのはNGです。一度、車体全体に水をかけて砂を浮かせてからでないと傷がついてしまいます。

 しかし、砂ぼこりなどは、水アカのようにこびりついた汚れではありませんから、あっさりときれいになります。ワックスがかかっていればいっそう簡単に落ちます。厄介な汚れですが、表面にあるだけなので、軽く洗うだけでいいのです。その度に洗車するのは大変ですが、黄砂が年間を通してしょっちゅうあるわけではないですし、放っておいて車体の傷を引き起こしたら、その傷は洗うだけでは取れなくなってしまいます。



 「イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。』」(ヨハネの福音書13章10節)

 キリストの十字架の贖いを信じ、受け入れたものは、すでに「全身がきよい」救われた存在です。しかし「足」は洗う必要があるわけです。それは救われても尚、罪を犯してしまう私たちには必要なことです。その日々の悔改めがあってこそ信仰生活は保たれます。

 もちろん私たちの救いは決して変わることはありません。しかし、イエスが「みながそうではありません」と言って、いつも行動を共にしながらもご自身を裏切ったユダをさして言われたように、「私はもう救われているんだから悔改めなんて必要ない!」と思うならば、それは、厳しい言い方ですが「みながそうではない」の「そうではない」人々に入っているのだと私は思わされます。全身がきよいとわかっている人こそ足をあらう必要を感じることができるのではないでしょうか。

「ダメなら、代わりにどうする?」

 福島原発の問題で、原発の存在そのものに問題提起がなされています。私も原発は危険であるという意見です。

 しかし火力発電は化石燃料を使用するので、いつかできなくなる発電…水力発電は、発電の為にダムが必要なので大量の森林伐採につながり、そもそも長野県等の山で囲まれたような県ならともかく、平野部では厳しい発電…太陽光発電は、現時点の技術では通常の電力供給を補う程度の発電量しか得られない状況…そして風力発電は、安定した風が常に吹く場所というのは非常に限られるということ…良いか悪いかは別にして現在の日本は原発に頼らざる得ない状況です。

 ということで、今、一番望まれるのはすべての原発をただちに廃止することではなく原発に代わる新たな発電方法や代替エネルギーを早急に開発することでしょう。しかし私は、それをどうすればいいのかわかりません。なので私個人としては原発は危険であるという意見ですが、同時に反対も主張する立場にないと認識しています。「すべての原発なくせ!でも代わりとなるエネルギーのことなんて知るか!」という気持ちには私はなれません。ただ祈るばかりです。

 聖書ヤコブ1章22節に、このようなみことばがあります。

「 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」

 昔、関わっていたあるクリスチャンの方で「この集いに風穴を開けてやる!」という意気込みの方がいました。しかし「ではどうすれば?」と意見を求めると、いつも「わからない」でした…不必要な部分、あるいは伝統を重んじ過ぎるあまり凝り固まっている部分に風穴をあけることも時には必要です。しかし、空けた風穴から何を入れるかということはもっと重要なことです。

 教会において「もっと○○することが必要だ!」「○○は止めた方がいいのでは?」という意見があるとします。しかし私は、ただ主張するだけではなく、その主張に基づいて行動するものでありたいと願っています。

第一戒

 先日、ある講演会に行きまして、講師のY師より、十戒の第一戒について語っていただきました。「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」の「わたしのほかに」は「わたしの前に」ということであると述べられました。ということの意味は、信仰を捨てて、他のものを神とすることではなく、神をおそれながら、なおかつ目の前に他のものを置くことであると語られました。つまり「まことの神を捨てて」ということは問題外であるということです。

 本当にその通りだなぁと思わされます。この第一戒を「まことの神を捨てて」と理解してしまう人は意外に多いのではないでしょうか。そうなると礼拝を守れなくとも「心では神を信じています」と言うならば、第一戒は犯していないということになります。そして実際にそのように考えている人も多く、そうなると極端な話、教会の存在意義を失います。

 しかし、この第一戒を「神をおそれながら、なおかつ目の前に他のものを置くこと」と理解するならば、私たちの信仰は心で思っているだけのどっちつかずではなく、実生活の伴うべきものであることを教えられます。「心では神を信じています」といっても、その間に他の優先すべきものがあるならば、それは紛れもなく第一戒を犯したことのなるのです。

 もちろん、私たちはいつどんな時でも神を第一とするような完全な信仰なども持ってはいません。ここで大切なことは「できないから仕方ない!」とか、できないから「それは罪ではない!」と問題をすり替えることではなく、それが罪であることを「認めること」と、たとえ完全にはなりえなくとも、聖霊に拠り頼みつつ「望むこと」が大切なのではないでしょうか。

まず自らが…

 先日、大分で起きた小学生のひき逃げ事件の容疑者が逮捕されました。被害者も一命をとりとめ、容疑者も無事捕まったということで一安心ですが、私個人としてはものすごいひっかかる部分が一点あります(あくまでも私個人としての感想ですが)。それは「車が児童をはねるのを見た」という目撃証言です。普通に考えれば、解決の手掛かりの一つになったのでいいことなのだと思いますが、問題なのは、警察や救急に通報したのは、児童がすでに一人で倒れているのを発見した児童の父親であったということです。

「車が児童をはねるのを見た!」という人は、いったい何をやっていたの!?…と思ってしまいます。だって、現場見てるんだったら、その場で児童に駆け寄って通報すればいいいのに…一歩間違えれば、取り返しのつかないことになっていたのかもしれません。現代は物騒な世の中ですから、事件に関わりたくないという心境はわからないでもないですが、今回のようなケースで関わっていったい何の不利益があるというのでしょうか?必要性を感じたならば、まず自分が行動することが大切であることを思わされます。

 教会にはさまざまな必要がありますが、一人ですべてのことに気づくのは不可能です。しかし、だからと言って自分が気付いたのに、牧師に「先生!お願いします!」と何でもかんでも言ってしまったり、また牧師が信徒に何でもかんでも「○○さん、これもやっておいて下さい!」と押しつけることがいいことではありません。もちろんその立場によってなすべき役割というものはありますが、誰が行なってもなせる教会のニーズというものも数多くあるのではないでしょうか。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブの手紙1章22節)

「牧師だから…」とか「信徒だから…」というのではなく、まず気付いた自らが「ひょっとしたらこれは私にもできるのではないだろうか」と一歩踏み出すことも大切であるのです。


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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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