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立てられた者の責任

 『ダビデはサウル王を倒すチャンスはいくらでもあったが、神様を信じているダビデはそれをしなかった。「主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」(Ⅰサムエル26:11)。どんな事情があっても主に油を注がれた方を大切にすることは教会の祝福の源であり、その反対は教会も個人も祝福を失うのだから。』

 一見、「おーなるほど!」と思えるような文章ですが、じつはこれは、ある教会の機関紙で、その教会の牧師本人が掲載した文章の一部です。その教会のHPに公開されている文面なので、名前を伏せる必要はないのですが、一応、教会名は伏せさせていただきます。私はこの文章を見たとき、衝撃を受けました。このようなことは教会に招かれたゲストメッセンジャーが言うことはあっても、その教会の牧師本人が文面にして言うことがあろうとは正直思わなかったです。今回はご批判は承知の上で記事を書かせていただいております(文責は教会ではなく、私個人にあります)。

 先日、所属教団の研修会で、教会のカルト化やパワハラに関しての発題がなされたばかりであったので、よけいに違和感を覚えたことであります。やはり、どのような教会にも、このような危険性が潜んでいるのだと改めて思わされ、また同時に自分自身も牧師として身の引き締まる思いです。そもそもダビデがサウルを手にかけなかったのは、立てられたものであるからという理由もありますが、それ以上に「さばきは神に委ねる」という神への信頼から来るものでした。それはⅠサムエル記24章12節の「どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。」というダビデの言葉からも明らかです。つまりダビデはサウルの行為を良しとは決してしていなかったということです。結論ありきで聖書を引用すると、時に解釈を誤らせます。

 教会において「立てられたものだから従っていく」ということは大切なことです。しかし、何故、従うかというならば、それは「神を信頼する」が故です。神の正義故に立てられた者に従っていくのです。だからその神の正義に反するならば、時に立ち上がることも必要でしょう。例えば、私が信徒に向かって「イエス・キリストは神ではありません!」と言ったとします(あくまでも例えばです)。そんな時、教会の信徒の皆さんには全力で戦い、私を追い出していただきたいと思います(笑)。

 また誰しも過ちを犯します。それは神の前には誰であれ同じ過ちです。立てられている者だからいいということは断じてありません。むしろ、ヤコブの手紙3章1節に「 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」とあるように、立てられた者だからこそ、赦されないこともあるのだと思います。

 少し批判めいた文章になりましたが、これは「教会」という群れを考えるとき、決して間違ってはならない大切なことであるので書かせていただきました。私自身、教会は信徒のものでも牧師のものでもなく、神のものであることを心に留め歩んでいきたいと思います。

 
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