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自分さえ良ければ…

 今週は、とある用事ができて郷里の長野まで行ってきました。高速道路を使わないで長野を往復する場合はいつも上越周りのR18ではなく、津南方面のR117を通ります。今回も帰りはR117方面のルートを通りました。新潟県から長野県に行く場合は、妙高~信濃町を通るルートの方が一般的で交通量も多いですが、こちらの津南~栄村辺りは、交通量が少なく、ゆったりとした感じで流れています。

 このR117は、片側1車線にしては珍しく、制限速度が60キロの区間があります(通常は50キロの事が多い)。おそらく県境の辺りは民家が少なく、歩行者が殆どいないからでしょう。この辺りは交通量も少ないので、非常に気持ち良く運転できます。しかし、片側1車線なので、先頭の車がノロノロ運転だと交通量は少ないのに、時折、大きな列ができます。2車線だと問題ないのですが、1車線の場合は追越しする場所が限られますので、詰まってしまうわけです。まったくもって迷惑なのですが、せめて制限速度近くは出してほしいです。制限速度よりも20キロも遅い40キロとかで走られると、後ろにどんどん車が詰まっていきますし、場合によっては危険なこともあります。中には後続車が詰まったのを確認すると「別におれはスピード違反をしていない!」と言わんばかりに、さらに速度を落とす悪質なドライバーもいます。自動車学校でも、安全な所は交通の流れを妨げないために制限速度でしっかりと走るように教えているはずですが…

 そんな場合、私はノロノロ運転の先頭のすぐ後ろを走っている場合は、さっさと追い越してしまいます。よく、1車線で追い越すドライバーを見て、「乱暴な運転だ!」とか「そんなに急いでどうするんだ!」とかいう人がいますが、それは偏見です。センターラインが黄色でない限りは、追越しは法的に認められている行為です(スピードの出しすぎは注意しなければですが)。また、先頭のすぐ後ろのドライバーが「前が遅いので仕方がない!」と言って、そのままノロノロ走ることはあまり良いことではありません。もちろん運転技術と相談しながらですが…何故かというと、自分自身は追越しの必要性を感じなくとも、その後ろに連なっているドライバーは、そうとは限りらないからです。すぐ後ろの車がさっさと先頭を追い越すことにより、後続車が追越しし易くなります。そうでないと、2台や3台をいっぺんに追越すドライバーが出てきて、逆に危険です。そうならないように、私はノロノロ運転の車が前にいる時は、後続車の事を考えてなるべく追越します。

 皆さんはどれだけバックミラーやドアミラーを見るでしょうか?車線変更の時以外は見ないという人が案外いるのではないでしょうか。以前、私が自動車関係の会社で働いていいた時、若い新入社員が、自動車置き場から工場に自動車を運転してきて、その車を見たら、何とドアミラーが折りたたんだままになっていました。他の社員が「どうやって運転してきたの?」というと、その新入社員の答えは「えっ!ドアミラーたたんでましたか?」という驚愕の答えが返ってきました。つまり、普段、運転する際、ドアミラーを見る習慣がないということです。普段から見るクセがついている人は、走り出してすぐに「あっ!」と気づくはずですからね。

 何故、ドアミラーの話をしたかというと、たとえ直進しているだけでも、たまに後続車両の状況を確認して「だいぶ後ろが詰まっているな」とか「後ろの車、追越ししたがっているな」とかを配慮する必要があるからです。「自分だけ走っている」という感覚であると、前の車は見ても、後ろの車まで確認するに至りません。ノロノロ運転の車がいて「別に私は気にしていない!」と思っても、その後ろの多くのドライバーが気にしている事もあるのだと、配慮が必要なのではないかと私は思うのです。

 教会において、ある人が過ちを犯したり、非常識な言動があったりするとします。そんな時、よく問題となることが、人によって図り縄の尺度が違うということです。厳しすぎる人もいれば、甘すぎる人もいます。その言動を受け入れることができる人もいれば、どうしても受け入れることができない人もいます。これは非常に難しい問題です。しかし、大切な問題です。そんな時、注意が必要なことが「自分はあんな言動があっても気にしないから、あなたたちも受け入れなさい!」と言ってしまうことです。みことばの真理とは、あまり関係のないところでは、ある程度はいいかもしれませんが、真理に触れる部分の場合は、過ちを犯した本人を見てつまづかなくとも、その過ちを、そのまま受け入れた人を見てつまづいてしまうこともあります。

 道路でドアミラーを確認しながら「自分は平気だけど、他の人は平気ではないかもしれない」という配慮が必要であるということです。例えば、聖餐式のぶどう酒ですが、多くの教会は「ぶどうジュース」を使用しています。たまに極端な禁欲主義的な考えの牧師がいて「聖書でイエス様が飲んだぶどう酒は、実はぶどうジュースだ!だからアルコールを飲むべきではない!」などという意見がありますが、それは皆さんのご想像通り、ただの詭弁です。なぜアルコールではないかというと、他の人々への配慮の為です。「別にあんな少量のワイン飲んでも全然平気だ!」と「自分」はいいと思っても、アルコール依存症から立ち直った人にとっては、全然平気ではありません!一滴でもアルコールを口に入れたらおしまいです。においですらダメであると言います。未成年のクリスチャンの場合にも無理があります。多くの教会は、そのようなことを配慮し、ぶどうジュースを使用します。

 このような配慮は、何も聖餐式だけではなく、多くの場面で必要です。自分自身が平気でも、その受け入れた自分を見て、平気ではない人がつまづいてしまうかもしれないといつも考えることが必要なのではないでしょうか?「私は男の長髪が受け入れ難い!」とか趣味の問題とかまで配慮する必要はないと思いますが(笑)。いずれにせよ、道路が自分ひとりだけで運転していないのと同様に、教会も自分ひとりだけしかいないわけではないと思うことが大切なのではないでしょうか。


「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」(Ⅰコリント8:13)
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Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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