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相手のちりと自分の梁

 昔、高速道路で速度違反で捕まったことがあります。オービスではなく、追尾による取り締まりでした。昔は若気の至りで、結構かっ飛ばしていました(今はそんなことはしませんよ!)。ぬおわキロ~ぬやわキロぐらいだったと思います。夜であったのですが、バックミラーを見ると、ぬやわキロぐらい出しているにも関わらず、全然距離が離れないヘッドライトが見えて「まずい!」と思って慌ててブレーキを踏んだ直後に後ろで赤いランプが点灯しました。2点減点で済みましたが、気づかなかったら免許が危うかったです。

 えー、速度違反する方がまず悪いという前提でお話ししますが、上記のシチュエーション、何かおかしくありませんか?何故なら緊急車両は、赤色灯をつけていないと最高速度は一般車両扱いだからです(ちなみに、サイレンについては違反車両の追尾中などは、必ずしも鳴らさなくてもよいそうです)。しかし私が、ぬやわキロぐらい出しているにも関わらず、車間距離が離れないということは、後ろのパトカーも同じぐらい速度を出しているということです。その時点で、パトカーも速度違反です。パトカーが赤色灯を点けたのは、私が怪しいと思ってブレーキを踏んだ後です。きっと急に私の車の速度が下がったので、制限速度以下になる前に慌てて追尾速度を記録して赤色灯をつけたのでしょう。

 このようなケースは非常に多いのではないかと思います。もちろん、速度違反を免れるための言い訳にしてはいけませんが、法律を取り締まる側が、まったく同じ違反をしていれば説得力ゼロです。まぁ、はっきり言ってしまえば違法取り締まりですね。でも、何よりも、常識的な速度で走っていれば捕まらないわけで、私も、以前のような速度を出して走行するようなことはありません。

 教会において、誰かの過ちを正さなければならないということがあったとします。私たちがそこで間違えやすいのは、過ちを正すために、自らも過ちを犯してしまうということです。その人に傷つけられたからと言って事実無根の情報を周囲に流したり、「そのような怒りはよくありません!」と言っている本人がすでに怒りがこもった口調であったりします。私たちには感情がありますから、いつも冷静に正しく歩むことなどできないかもしれません。しかし私たちは、隣人の罪がどうであるかということよりも、自分自身の罪がどうであるかということに目を向けなければなりません。見えない目で相手の顔のほこりを取ろうとしたら、逆に相手の顔を傷つけてしまうかもしれないのです。

 教会は赦された罪人の集まりですが、だからといって互いに無干渉だと、秩序がなくなり、教会は混乱します。故に相手を正すことも大切なことです。しかし、その前にしなければならないことは、相手を適切に正すために、自らの内に邪魔となっているものはないかを考える必要があるのです。互いにそのような信仰姿勢で励ましあっていくことによって、互いが成長し、そして教会も成長するのではないでしょうか。

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイの福音書7:3~5)
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