スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

権威はどこから?

 先日の主日礼拝は両親が出席したのですが、礼拝説教を両親の前でするのは4年目にして初めてです。まぁ、緊張はしないのですが、複雑な気持ちでもあります。昔は逆に家や教会学校でみことばを両親から聞いてきたわけですからね。でも、講壇から語ることは、私のお話しというよりは「みことば」の取次ぎですから、余計な心配は無用だったのかもしれません。

 私は、講壇から語るときは「みことば」として語るわけです。だから、多くの人生や信仰の先輩方が目の前にいても語れるのでしょう。ただの私の考えに基づく説法だったら、そりゃ~緊張しますよ(礼拝説教が緊張しないわけではありませんが・・・)。だって、この世的には、大部分の方が私より人生経験豊富なわけですから・・・

 このことを逆に考えると、講壇を降りたら、ある意味、教会員の一人です。みことばを語っているわけではない普段の私の発言や考えは、他の教会員の方々と同じ高さであるべきだと思うのです。もちろん、牧師としての責任や指針を出していくことは大切であるという前提ですが、講壇から語ることとは違い、一つひとつの私の発言に必要以上の権威があってはならないでしょう。普段から必要以上の権威を振るっていると、あるいは自分の中にそのような誤った思いがあり、抑えていると、講壇から、みことば以外のことも語ってしまう誘惑に陥ります。しかし聞く人は講壇から語られる言葉は「みことばの取次ぎ」と思います。そうすると、普段の自分の言動にも権威を持たせることも簡単にできてしまいます。そして、さらに講壇で語られることが・・・その悪循環がカルトとなってくるのだと思います。

 講壇から語る言葉は、「みことば」を語っているという確信のもと、たとえ両親がいても、人生の先輩がいても、臆することなく真理を語らなければなりません。しかし、それはあくまでもみことばの権威によるものであって、牧師の権威によるものではありません。リーダーシップは大事ですが、講壇を降りた牧師の言葉は、 みことばの裏付けがあることは別ですが、あくまでも牧師という「人間」の言葉であることを心に留めていきたいと思います。

スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
リンク
最新記事
カテゴリ
カウンター
検索フォーム
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。