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成長の過程

 昨夜は、神学生時代にお世話になった方のお宅に招かれ、共に交わりをしてきました。この方は私たち夫婦が二人ともいろいろとお世話になった方です。私は神学校が新潟でしたので、知り合いの先生方は、ほとんど新潟の方々です。そのような意味で東京にいる3年間は、新たにお世話になった先生方は多くいますけど、神学生時代にお世話になった先生方と交わる機会はほとんどありませんでした。今回、新潟の地に導かれたのは、本当に神様の不思議な御業です。

 思えば、牧会の事など何も知らない神学生の駆け出しの頃はいろいろと至らない部分があり、多くの先生方に助けられ、迷惑をかけたなぁと思わされます。(今も駆け出し牧師ですけど・・・)今振り返ると神学生ということで、自分は何かを悟ったつもりで先生方や周りを見たり言ったりしたけど、いざ教会の働きに遣わされた時、「何故、あの時、あんなことを言ってしまったのだろう・・」と思うところもあります。もちろん「あの時、あのことを貫いておいて良かった!」と言うこともありますけどね。

 神学校での学びをするということは知識の上での落とし穴があります。知識は学んだ分だけ、すぐに身についていきます。しかし、献身者としての信仰姿勢は自分が思ったようにはいかないわけです。そうなると信仰の部分だけが置いてけぼりをくって、知識だけが先行してしまう恐れがあるわけです。だからこそ、多くの人に助けられたなぁと振り返ると思うわけです。大抵は、信仰の成長のほうが知識よりも遅れますから(笑)・・・だから駆け出し牧師の私としても、そのことは忘れないようにしたいと願っています。

 でも、本人ばかりではなく、周りもそのことを踏まえるべきなのかなぁと思うのです。特に神学生として初年度の場合はそうです。今は7月ですが、神学校1年生の人たちは、つい3ヶ月前まで一般信徒として過ごしてきたわけです。そのような人たちに、献身者としての信仰姿勢にいきなり多くを求めるのは違うような気がします。もちろん召命はなければぐらつきますし、学んだ分だけの知識は身につきます。しかし、その心構えやスキルは、神学生として歩む中で少しづつ形成されていくものなのではないでしょうか。それは献身者としての歩みばかりではなく、クリスチャンとしての歩みをなしていくことにも同じ事が言えます。「あなたもう洗礼を受けたんだから!」と言って、いきなり多くの重荷を背負わせると、担いきれずに潰れてしまうことだってあります。神学生として最低限求められることや、クリスチャンとして絶対にはずれてはならない部分と言うものはあります。しかし一人ひとりに成長の過程があるのです。

 でも、一人ひとりの歩幅は違っても、前に進まなければ成長はしません。本人は成長を願っていきつつ、周りは見守って(何も言わないということではないですよ!)、一人ひとりの成長に合わせた導きをしていくべきではないでしょうか。


「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ人への手紙3:16)

 一人ひとりが今立っている場所は、すでに達していて主が受け入れてくださっていることを私達が受け止めつつ、しかし、そこはゴール地点ではなく、さらにそこをスタートラインとして一歩一歩進んで行くことができるようにお互い励まし合っていきたいものです。
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