スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

隣人となる

 昨日、ある会議に出席しまして、司会の先生の最初の奨励で、ヨブ記6章14節が開かれました。

 「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。」

 大震災に見舞われたこの日本にあって、キリスト者が傷ついている人々に寄りそう大切さを学んだことであります。それはボランティアのような生活の助けであったり、福音を伝える事であったり、自らの賜物を生かし、励ますことであったり…人によってできることが違い、さまざまです。しかし共通していることは「神を捨て去ることがないように、落胆しているものに友情を!」というみことばの通り、私たちは実際に「行う」ということが大切であるわけです。

 もちろん、実際に被災者と関われるのは限られた人でしょう。しかしこのみことばの言わんとすることは、今回のような限定的な出来事に対してではなく、私たち教会の普段の姿勢が問われているのです。以前、ある教会で私が言われたことなのですが、礼拝中に、会堂の真ん中の列あたりに座っていたある婦人の方が、一番後ろに座っている私のところまでわざわざ来て「先生!私の前に座っている人が初めての人みたいで聖書が開けないみたいなんです!先生が手伝って上げて下さい!」と言われました。私は「すぐ後ろに座っているあなたが開いてあげればいいじゃん!」と叫びました(心の中で)。

 どの教会にも新来会者が来ます。そのような中でみんなが「あの人がフォローしてくれるだろう」なんて思っていたら、万が一その「あの人」がフォローしなければ、いったい誰がフォローするのでしょうか?先ほどの話のように「先生!お願いします!」といっぱい言われても私は一人しかいません。これは牧師も含め、教会に連なるクリスチャンすべてに課せられた使命ではないでしょうか。「自分は年代が離れているから…」「異性だから…」と言うのであれば、自らがパイプ役となって相応しい兄姉に導けばいいのであって、これは誰にでもできることです。またみことばをもって主が命じておられることでもあります。

 ルカの福音書10章に「良きサマリヤ人」のたとえ話があります。強盗に襲われ傷ついている人を祭司やレビ人は見過ごして行ったけど、通りかかったサマリヤ人がいたれりつくせりの介抱したというたとえ話です。これを「サマリヤ人はイエス様で、私たちには弱さがあって、できないようなこともイエス様はしてくださる!このたとえ話は自らの弱さとイエス様の愛との対比である」と解釈する方々もいますが、私ははっきり言います。

 それは大きな間違えです!

 このサマリヤ人にイエス様の愛を間接的に見ることはできるかもしれません。しかし、そのイエス様はこのたとえ話をされた後、「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われたのです。私たちはイエス様の愛に自らの弱さを隠してしまうのではなく、その愛を「分け与える」ものであるべきではないでしょうか。フォローするということに得手不得手はあるでしょう。しかし聖書は「あなたも行って同じようにしなさい。」「落胆している者には、その友から友情を。」を語るのです。やってみてできなければそれは主が受け止めて下さいます。まずは一歩踏み出してみることが大切であると思います。私自身、臆せず、踏み出して主の愛を分け与える隣人でありたいと願います。
スポンサーサイト
プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
リンク
最新記事
カテゴリ
カウンター
検索フォーム
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。