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世の批判よりも福音の素晴らしさを

テレビの料理番組を見ていると、出演者の方が「IHだから火力が弱くて中々温まらない」と料理が早く出来ない言い訳をしておりました。確かにそういう話はよく聞きます。でも私は疑い深いので(笑)ちょっと調べてみますと予想通りでした。

IHの火力不足を感じる方は大抵、低出力のものを使用しているようです。後付けで100V仕様のままとか、お手軽な卓上のものを使っているケースです。あとは調理器具が合ってないケースですね。きっと上記のテレビ番組のものもそのようなものだったのでしょう。それってカセットコンロを使っておいて「ガスって火力弱いね」と言っているようなものですよね。実際はちゃんと備え付けで200V仕様とかにしてあるものはむしろガスより高火力でお湯も早く沸くようです。

何故こんな誤った認識が広まったかをちょっとググってみますと、なんと大手ガス会社がHPとかで堂々とIHの批判を並べるネガティブキャンペーンみたいなことをやってるんですよ。驚きました。じゃあ、ガス会社の言っていることだから正しいことなのかと言えば、決してそんなことはありません。事実、私の友人宅のIHでお湯が早く沸いたり、不足なく調理したりするのをこの目で見ております。

選挙の話題の時にも少し触れたのですが、ライバルの批判をする前に「ガスってこんなに便利なんですよ!」と自分たちの主張の素晴らしらをアピールする方が好感が持てます。ましてや批判の中に誤った情報まで入れるというのはいただけないですね。

聖書のみことばは、この世の価値観とは違う価値観があります。それ故、この世の状況を見る時、聖書的に過ちであるということもたくさんあるでしょう。でも、それはバランスが大切だと私は思います。「あれは間違ってる!」とか「これは正しくない!」とかばっかり言っていたら、世の中の人は、本当に伝えたい福音を聞く前に心を閉ざしてしまいます。

地の塩、世の光としてキリスト者が世の中の過ちを指摘することは必要なことでしょう。でも、もっと必要なことは福音のキリストイエスの素晴らしさを伝えることではないでしょうか。いくらキリスト者の使命だからといって批判ばかりしていたらいずれ誰も耳を傾けてくれなくなってしまいます。バランスって大切なのです。

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知らなかったでは済まされない問題

 鳥取で大きな地震がまたありましたが、こういう時に必ずと言っていいほど出てくるのがSNSのデマ投稿やデマツイート。そしてデマは興味を引くような内容にするのが殆どなので瞬く間にシェアされ拡散されていきます。今回もすでにありました。一番悪いのは発信源であるのは言うまでもありませんが、それを信じ込んで拡散させた方々はそれがデマだと発覚した時にさりげなく投稿を削除される方が多いようです。まぁ、そのままにして放置しておくのは問題外ですが…

 でも本当にそれでいいのでしょうか?私はたとえ発信源でなくとも、情報源のウラをろくにとりもせずに「ひどい!」とかいった感情だけでシェアしたりリツイートしたりした側にも責任があるのではないかと思います。熊本地震の時はデマを流した人が逮捕されました。つまりそれは犯罪行為であったという事です。であるならばその犯罪行為に加担した責任は広めた人すべての人にあるべきだと私は思います。

 「デマとは思わなかった」では通用しません。客観的に考えて不自然な点はないかとか、他にも同じ内容の情報源があるのかとか、その情報に関連する団体や企業はどう言っているのかとか、少しウラを取れば、それがもしデマであるならば大概のものは分かります。はっきりしないものは「本当かどうかわかりませんが…」という情報源の信ぴょう性に関しての前置きをしたうえで拡散するか、あるいは拡散しないかのどちらかにするべきでしょう。

 そしてもし、デマだと見抜けずシェアなどしてしまったならば、さりげなく削除するのではなく、その情報がデマであったために削除をしたということををはっきりと伝え、お詫びをする投稿をするべきだと思います。仮に削除に気づかなく(そのパータン結構多いと思います)、デマをそのまま信じ込んだままの人がいたらどうするのでしょうか。ですから発信源だけではなく、広めた側にも物事を収める責務があるのではないでしょうか。

 神の御前に犯した罪はキリストの十字架の贖いによってすべて赦されます。その罪の中にはそれが罪だとわかっていながらも犯してしまった罪と、神を知る前までは、それが罪だとわからなかったものもあるでしょう。ですが、もし、神の御前に悔い改めるならば、その罪によって生じた事柄に対しての責任を取らなければなりません。

 誰かを傷つけたならば、その人に謝罪をして関係を回復させる必要があります。「私はもう赦されているんだからもういいよね!」なんてことにはなりません。それを言ってしまえば極端な話、犯罪行為を犯しても神の御前に悔い改めれば刑罰から逃れてもいい…なんてことになってしまいます。たとえ知らずに犯した罪であっても、もしそれが罪だと分かったならば神の前に悔い改めると共にその罪によって不利益を被った人もいるのだということを覚えて誠意を尽くさなければならないのではないでしょうか。

その憤りは正しいのか

あるテレビ局の報道番組で沖縄に来る外国人観光客相手の違法ガイドの事が取り上げられていました。留学生として沖縄に来た若者がそのまま違法ガイドになってしまうことが多いようです。その影響が正規に営業している観光業に出ているようです。

それはそれで深刻なのですが、私がもっと気になったのは潜入取材です。番組の外国人スタッフを使って観光客を装い、実際に無資格でのガイドや白タクなどの違法サービスを受けながらさりげなく質問していくというものです。

これって違法なんじゃないですかね。取材するだけならまだしも、違法だと明らかに認識しながらそのサービスを受けているのですから、違法行為に加担しているわけです。番組では映らなかったけど確実にお金を払ってるでしょう。でないとトラブルになって番組どころではなくなりますからね。

こういった潜入取材ってよくありますよね。違法な客引きに実際にのってしまったり、いわゆるボッタクリバーに潜入して実際に高額な料金を支払ったりなど、いかにも悪を暴いで正義感を振りかざしたかっこいい報道のように見えても、それらは自分たちが違法行為だと認識している以上は、それは違法行為に加担しているのです。違法行為を暴く正義のために自分たちが違法行為にのっていいなんてことは本当はあってはならないんじゃないかと思います。

クリスチャンの皆さん。隣人が過ちを犯した時、憤りを覚えることはないでしょうか?誰しもあるでしょう。でももしその憤りの理由をあまり考えずに感情をそのまま相手にぶつけてしまった時、今度は自分がその隣人に対して過ちを犯してしまうことになるのです。そしていつのまにか理由なんてどっかいってしまって相手をやっつける目的にすり替わってしまうのです。

もちろん、心に思っているだけならいいということではありませんが、相手にその感情をぶつける前に、その怒りの理由をしっかりと考えるべきです。そしてもしそれが本当にみことばの正義からくるものであるならば、相手が罪を悔い改めて神に立ち返るには何が最善であるのかを考えましょう。相手の行為が神の御前に正しい行いではないのだとしても、それを正すために自分が神の前に正しくない行いをなしたのであれば、それはとても悲しいことです。

自戒の意味も込めてです。


現状に即したものとする

 現在、普通自動車免許は50cc以下の原付バイクが乗れることになっています。それが今後、この枠を125cc以下の原付二種の枠まで拡大しようという動きが出ています。賛否両論ありますが、今の動きだとおそらくそうなるのではないかとの見解が有力です。バイクに乗らない方はどのような違いがあるのかあまり分からないと思いますので一応違いをざっくり比べると以下の通りです。

原付一種(50cc以下)
・制限速度は30km/h、なので入る人はいないとは思うけど当然高速道路は不可
・片側が三車線以上あるようなところは二段階右折をしなければならないところも多数
・二人乗り不可
・現在の免許区分は原付又は四輪免許で運転可能

原付二種(125cc以下)
・制限速度は標識通りの速度を出すことが可能、ただし制限速度が80km/h等の自動車専用道は不可
・二人乗り可
・高速道路不可
・現在の免許区分は普通自動二輪小型限定

自動二輪(126cc以上)
・制限速度は標識通りの速度を出すことが可能、制限速度が80km/h等の自動車専用道等も可
・二人乗り可
・高速道路可
・現在の免許区分は普通自動二輪又は大型自動二輪

地方にいるとあまり分からないですが、渋滞や入り組んだ道が多かったり、駐車場が非常に少ない都市部では、制限のある原付よりも原付二種や自動二輪の方が重宝しています。今、議論されていることは、四輪免許で125ccまで運転できるようにして渋滞緩和しようということなのではないでしょうか。原付が増えても結局交通の流れに乗れませんから渋滞緩和にはならないですからね。

私はいいのではないのかなと思います。私が考えるに運転の際、安全に必要となってくることは運転技術よりもむしろ交通法規の把握や危険予測なんかではないのかなと思います。ですから、簡単なペーパー試験のみで実技試験がない原付免許とは違って四輪免許を取る時はしっかりとその辺りを学びますから、下手に試験場で一発で取ってしまった二輪ライダーよりも、安全という事に関しては安心できるのではないかと思います。技術的なことは慣れです。そもそも大型自動二輪の教習でさえ路上教習や試験は一切ありませんから、二輪専用の免許でないと危ないというのは微妙なところです。

かと言ってすべてのバイクが運転できるようになってしまうのだとあまりにも危険です。スピードの問題もありますし、250ccもあればばスポーツカー並みの加速をしますし、大型バイクだとスーパーカー以上の加速をします。ですから高速に乗ることができない125cc以下というのが妥当なのではないかと思います。今後、実際にそういう制度になった時、現在すでに四輪免許を持っている人も含めてそうするのか、それともこれから新たに四輪免許を取ろうとする人たちに適用するかですね。

ただし、もう絶版で中古しかないですが、2ストの125ccは四輪免許のみの人はお勧めしません。今どきの250cc並みのパワーがあります。やめといたほうがいいですよ(笑)。

いつもいう事ですが教会も時代の実情に合わせていくことの必要性を考えさせられます。


神が定めた制度

東京都の学校の教員が結婚後に旧姓で名乗ることを許可されず裁判を起こした記事がありました。結果は請求棄却。まぁ、いいか悪いかはここでは論じませんが私立なので仕方がないかな。ちなみに私は公立高校卒ですが、国の法律で認めている二輪免許取得を禁止していました。裁判起こしたら勝てたかも(笑)。

ただ、私は旧姓がどうだとかいうことではなく、少なからず世の中の結婚制度の形が崩壊しつつあることに危機感を覚えています。「父母を離れ一心同体となる」「神が結びつけたものを引き離してはならない」…聖書が示す結婚は一体をあらわしています。ですから手続き上のことや仕事上の利便性で旧姓使用を求めるのはまだしも「夫と私は違うから」とか「いま離婚する人も多いし…」という理由であるならば、神が定めた結婚の秩序から離れていくものであると私は考えます。

聖書には結婚前の恋愛のことは殆ど記されていません。それは結婚というものが恋愛の延長上にあるのではなく、一心同体となる神の定めた聖なる結婚の過程に恋愛というものがあるからです。そういう意味での夫婦同姓は意義のあるものではないでしょうか。旧姓使用そのものを否定しているのではなく、同姓であることに神の結婚の奥義を見出す信仰者もたくさんいるのだということも覚えておくべきではないかということです。ですから私たち夫婦は私の姓ですが、もし結婚する時、妻の姓にしてほしいと頼まれていたら普通に承諾したと思います。

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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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