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似て非なるもの

 私の乗っているモンスター900には非常に似ているデザインのバイクがあります。それはホンダのVTR250というバイクです。

m900_93.jpg
こちらがドゥカティのモンスター900です。

そして…
VTR250_98.jpg
こちらがホンダのVTR250です。

 マニアに言わせれば「フレームが違う!」とか「エンジンがV型とL型で全然違う!」とか「FブレーキがVTRはシングルディスクだ!」なんていうのでしょうし、私もバイク好きなので間違えるということはありませんが、あまり詳しくない人からすれば同じバイクに見えるでしょう。ちょっとバイクを知っている人でもモデルチェンジした同じバイクだと思うかもしれません。似すぎです!初期型はバイクのくせにタコメーターが無いなんてところまで一緒です!ちなみにモンスターが発売されたのが1993年で、VTR250が発売されたのが1998年なので、「世界のホンダがドゥカティのデザインをパクった!」とも言われたりもしている可哀そうなバイクです。

 しかし、このパクリ疑惑、半分は正解で半分は不正解です。じつは、このモンスターのデザイナーであるミゲール・ガルーツィ氏は一時期ホンダにいたことがあり、その間にVTRの基礎となるようなデザインを残していったようです。その後、ミゲール氏はカジバに移りモンスターをデザインしたというわけです。ちなみに当時のドゥカティはカジバの傘下にありました。今はたしかアウディの傘下に入ってると思います。

 ということで真相は、ホンダがドゥカティをパクったのではなく、VTRの基礎のデザイナーとモンスターのデザイナーが同一人物だったというわけです。そりゃデザインが似ますよね。おそらくフルカウルのスポーツバイクが中心であった当時のドゥカティからすれば非常に前衛的なデザインで、当時の「ドカマニア」からは「こんなのドカじゃない!」と反感を買いました(今でもモンスターシリーズをドゥカティのバイクと認めない一部の熱狂的なマニアがいます)。それ故、ホンダも「こんなデザイン売れるわけがない!」と思ったのでしょう。しかし、結果的にはモンスターシリーズは大ヒットして、今ではドゥカティの中で一番の販売台数となっています。察するにその売れ行きを見てホンダが慌ててミゲール氏のデッサンを持ち出して、それをもとにVTRを発売したという流れでしょう。

 でも、いくらデザインが似ていても、乗ると全く違うバイクです。排気量が違いますからパワーはモンスターの方が圧倒的に上です。しかし、乗りやすさはVTRの方が圧倒的に上でしょう。誰でも乗りやすいVTRに対してピーキーな性格のモンスターは少々手こずります。似て非なるバイクですね。だから、VTRに乗っていた人がステップアップを考える際、デザインが似ているというだけでモンスターは選んではいけません(特に初期型)。現行モンスターはだいぶ乗りやすくなっていますが、それでもやはりVTRとは違います。

 似て非なるものであるからこそ注意が必要なんです。これは信仰においても同様です。私たち福音的立場の教会は、あくまでも聖書信仰を貫きます。それ故、「なんでそんなに他の立場を受け入れないの?ちょっと教理がちがうだけじゃん!」というご批判も受けたりします。しかし、似ていてもやはり別であるのです。神のことばは100%正しいから信じられます。たとえ誤りがたった1%であったとしても、その時点で残りの99%に確信が持てなくなってしまいます。

 ブランド品の偽物は何故、出回るかというと本物と似ているからです。明かに違うと分かるような品質の低い偽物は出回りません。出回ったとしても「これは偽物です」という認識で皆さん購入するのだと思います。しかしいくら似ているからと言っても、たとえどんなに本物と見間違えることがあったとしても、本物として認定されることは決して許されません。違う部分が多ければ多いほど見分けがつきます。注意しなければならないのは似ている場合なのです。
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一番欲しいものではなく一番最適なもの

 私がバイクを乗り始めたのは高校1年の16歳の時でした。最初は原付と思っていたのですが…やはり原付はパワー不足で、何と言っても制限速度30km/h規制があるので、街中のチョイ乗りならいいのですが、当時、自宅から別の市の教会に通っていた(わざわざ遠くの教会を選んだのではなく、引越しをしたからです)私にとっては制限速度30キロ原付は考えものでした。

 今の4ストのバイクは出せてもせいぜい55キロぐらいだと思いますが、当時の原付は2ストばかりだったのでリミッター解除すればノーマルでも90キロぐらい出たのです。しかし30キロ制限だと60キロで捕まっても免停です。スピード出すつもりのない人ないざ知らず、車と同じような速度で走りたいという原付ライダーはいつも免停と隣り合わせです。よく乗ってられたなぁ、当時の人たちは…

 …ということで私は欲が出てしまい、自動二輪を取ろうと思ったのですが、大型二輪は当時は教習所による実技免除がなかったので超難関で高嶺の花、400ccまで乗れる中型限定(現在の普通自動二輪)をと思っても、当時私の住んでいた長野県内特有の教習所の申し合わせで、中型限定は18歳になるか小型限定(125cc以下)を取得して1年経過しないと取れなかったんですね。日本の法律では許されていたので理不尽この上ないのですが、それだけ当時は県内の二輪事故が多かったのでしょう。

 結論からして小型限定を取得して125ccを乗ろうと思ったわけです。当時はフルカウルバイクに乗りたくて仕方がなかったのですが(今もフルカウルバイク好きです私)、125ccクラスでフルカウルのバイクは殆どなかったんですね。唯一あったのがTZR125のフルカウル限定車…そんなものがそこら辺に出回っているわけではないですから、諦めかけているとハーフカウルのスズキRG125がフルモデルチェンジ!…しかも衝撃的なスペックと見た目でした。

RG125.jpg
倒立フォーク、湾曲スイングアーム等々…当時の250ccレプリカクラスで採用するような豪華装備満載で、見た目も当時の125ccクラスではあり得なかったぐらい文句なくカッコいいスタイルでした。今でも乗ってみたいですね。

 しかし値段も44万とこれまたビックリ価格で、他の125ccの相場から軽く10万円以上高い値段設定で、せいぜい中古で20万円台と思っていた私にとっては、とてもとても買える代物ではありません。しかもネットが発達していなかった当時としては中古は地元で探すしかありません。今でこそ125ccクラスは注目されていますが、昔は不人気クラスで125ccの中古を見つけるだけでも大変な時代でした。

 そこであちこちバイク屋さんを捜しまわって見つけた一台が、ヤマハの「DT125」という全く別の方向性のバイクでした。

dt125
いわゆるオフロードタイプです。私が乗っていたのは写真よりもっと古い型のヤツですが、これが人生初バイクとなりました。シートが高いのでつま先ツンツンで最初は苦労しましたが、慣れたら疲れない楽なバイクでした。しかもオフロードタイプのバイクは減速比を加速型にしてあるので、軽い車体と合わせて強烈な加速をします。4ストの現行125ccは全く相手になりません。

 でも今思い出してみると、このバイクが人生初バイクとしてよかったなぁと思ったことは「頑丈」だったということでしょう。こういったバイクは未舗装の道路をある程度走行することが想定されているので、壊れやすい部品は少なくします。しかも軽いので余計にダメージが少ないです。昔、いろんな人に「初めてのバイクは絶対にコケるから」と脅されていましたが、確かにその通りで、何回もコケました。しかし、私の記憶だと何度コケても交換した部品はブレーキ&クラッチレバーぐらいだったと思います。きっとフルカウルのバイクだったらとんでもない出費になったことでしょう。

 一番欲しいと思ったバイクは乗れませんでしたが、一台目のバイクとして身の丈に合った最適なバイクであったと思います。直線加速は強烈でしたが、バンクさせて膝を擦って…というタイプのバイクではないので自然に安全運転になります。

 では無理やりこじつけましょう…神の最善とは、必ずしも私たちの考えている一番とは違います。しかし神は私たち以上に私たちの必要をご存知です。だから神は「私たちが欲しいもの」ではなく「私たちが必要なもの」を与えてくださるお方であるのです。

「感情論」に頼ることなく

 最近のテレビの報道を見ていると良いニュースも悪いニュースもレポータやアナウンサーがじつに凝った言葉遣いをするようになったなぁと感じています。なんて言いますか、まるで詩人や作家が使うような表現をする人が増えているように感じるということです。私はなんとなくそれが気になります。

 何故かというと、報道の善し悪しを感情に訴えているような気がしてならないのです。必要以上に悲しみを表現するような文言を使えば、よりその事件や事故の悲しさが際立つのでしょうが、本来は公平に真実を伝えるべきはずの報道のバランスが崩れてしまうのではと思っています。何気ないことを劇的な表現をして、あたかもそれが正しいかのように報道するようなこともあります。皆がそうではありませんし、感情に訴えることの全てが悪いわけではありませんが、このような感情に訴える報道がメインとなってしまうと、物事の真実性が失われるような気がして、私は個人的に気になっています。

 昔、「四つの法則」という伝道冊子が流行ったのですが(今でもその内容は不変であると思います)、その最後の方に「感情に頼ってはいけません」ということが記されていました。確かにその通りです。私たちの救いとは「聖書のみことばの約束」という真実に基づいているからです。救われているような喜びがあるから救われるのではなく、聖書の約束に従ったから救われているわけです。喜びはその確信にともなって後から与えられるものであると思います。

 主に従って行くとき「喜んで」という感情の部分は大切ですが、あくまでもそれはみことばの根拠があるから喜べるのです。救いは「感情的」ではなくじつは「理性的」なものであるのです。

表面ではなく根本を

 以前にも書きましたが、私のバイクはクラッチカバーに穴あけ加工がなされていて「ガチャガチャ」と壊れているのかと思ってしまうほどの音を発しています。これでは世界唯一のデスモドロミックL型ツインエンジンの音を楽しめません。

clutch
 こんな感じで穴があいているわけです。クラッチを切ったときの「シャラシャラ」という音はまだいいのですが、ニュートラルでクラッチをつなぐと「ガタガタ」というものすごい打音がします。おそらくクラッチプレートがハウジングを叩いている音だと思います。

 アルミテープで穴を塞いだぐらいじゃ全く効果がありません。穴あきでない純正のクラッチカバーを入手するのが一番ですが、新品取り寄せだと部品があったとしても高額になると思いますし、某オークションだと新品ほどはしないですが、中古品なのに皆さんなかなか強気の値段設定で落札する気になりません。そこでちょっと考えてみました。「厚めのゴムか何かで穴を塞いでしまえばどうだろうか…」そこで…

clutch2.jpg
 厚めのゴムに溝を切って穴に割り込ませました。これでどうだろうか…エンジン始動…「おおっ!クラッチを切った時のシャラシャラ音がすっかり消えてる!」そしてニュートラルにしてクラッチをつなぐと「ガタガタガタ…」…見事に打音がします(泣)以前よりは気持ち静かになりましたが、本当に「気持ち」ぐらいです。効果に対して見た目がビミョーなので、もとに戻してしまいました。

 ちょっと調べてみたらクラッチプレートとハウジングをアルミ製(この年式のモンスターはスチール製)にしたらかなり静音効果があるらしいです。年式の新しいモンスターはアルミ製だそうです。社外品でもアルミ製のものがあるので、今度はそちらの方を試してみたいと思います。とはいっても安い部品ではないのでクラッチ交換の時期が来たらかな。

 やっぱり表だけの工夫ではダメなんですね。しかし中身をアルミ製にすると穴あきカバーでもそんなに五月蝿くないらしいです。しかも軽量なのでクラッチ操作が軽くなるらしいです(この時代のドカティは比較的クラッチが重いです。10分ぐらい渋滞にハマると手がつりそうになります)。

 
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」ヨハネの福音書13章10節

 私たちの人生は問題だらけです。何一つ問題なく人生を終える人なんていないと思います。教会にはその問題の解決があるのだと思い、人間関係、進路、病気、経済的問題等、さまざまな問題の解決を求める人々がやってきます。私はそのような問題を解決してあげたいと思いますし、実際、神が働かれれば解決されることも事実です。

 蛇足ですが…

 この機会に言っておいた方がいいと思いますが、多くの教会はあらゆる問題の解決の手助けはしても経済的支援は行なっていません(全てというわけではありませんが)。何故ならばクリスチャン人口1%未満という日本の教会の多くは経済的にゆとりがあるわけではないので、経済的支援を行なう多くの場合、牧師個人のお金から支援するしかありません。そうなるといつも支援してあげられるわけではないですし、万が一支援をしてしまうと、あっという間にネットワークが広がり「あそこの教会にいけばお金もらえるぞ!」と多くの人々が訪れます。そして限界にきて支援をお断りすると「この前はくれたのに!」とか「あの人にはあげたのに!」とかキレられることもしばしあります(実際、私は体験しています)。

 「そんな支援もできないで何で牧師になったんですか?それでも教会ですか?」とキレられたこともあります。まるで牧師がお金を支援しないで普通の暮らしをしたりとか与えられている範囲で贅沢したりすることがいけないみたいな言い方をされるわけですよ。そうなると殆ど恐喝ですよ!なので私たちの教会は経済的支援は行ないません。それは教会員であってもです。あまり表だってこういう発言する牧師がいないのですが、もっと言った方がいいと思いますよ。私は経済的支援を行なう牧師や教会を否定するつもりではありませんが、それが教会のスタンダードと勘違いされると場合によってはその他多くの教会に影響を及ぼすことがあります。せめて「ウチは支援するけど、どこの教会でも支援してあげられるわけではないですよ」と付け加えて欲しいと願います。

 聖書が示す救いはそういった一つひとつの問題の解決ではありません。そうではなく根本の問題の解決である罪からの救いを得る時「足以外は洗う必要がありません」とあるように、さまざまな諸問題の解決へとつながっていきます。

 しかし、根本の問題である罪からの救いを得ていないと、いくら目に見える問題を解決していっても、新たな問題でまた苦しむことになります。たとえばお金を支援してもその人の問題が解決されるわけではありません。支援し「続けられる」なら話は別ですが…罪からの救いをいただくその先にあらゆる問題の解決が、そしてたとえ解決されなくとも、神が共におられる故の平安が与えられるのです。

いざという時の備え

 昨日は仙台で会議があり、車で往復しました。この会議は毎年2月11日に行われますので、雪は付きものです。朝、高速に乗って県境の辺りまで走るとやっぱり雪です。祝日は皆さんそんなに早く出かけませんから、比較的空いているのですが、その分、路面状態は雪が残ったままなので最悪な路面です。

 4WD+前後LSD装備のレガシィでも無理は禁物です。会議の時間を考えつつ、危険にならない程度に慎重かつある程度ぶっ飛ばしていると、それを大幅に超える速度で高速バスが「バビューン!」と抜いていきます。雪煙りでこちらが事故るかと思いましたよ…到着時間があるのは分かりますが、あれは無謀でしょ!ねぇ○潟○通さん!バスが事故ったら乗客も周りも大変なんですよ!

 「えっ!今更!」という感じで塩化カルまいてましたけど、雪降る前にちゃんとやってないのであまり意味をなしていません。しかし塩カルは容赦なく車にこびりつきます。磐越道は磐梯山付近を通過する辺りまで雪がありましたが、東北道に入ると道路には全く雪がありません。降った形跡もありません。でも雪が降ってもいないのに塩カルは大量にまいてあるのでこれまた容赦なく車を白くします(もとから白い車ですが…)。

 帰りの磐越道は雪がそのまま残ったままになっています。さらに場所によっては氷点下6℃とアイスバーンになってましたからさらに大変でしたね(一台ワゴン車が回ってました…)。帰りもバッチリ塩カルをたくさん浴びてきました。家に着く頃には車のボディがすっかりざらざらです。塩分は車の大敵です。早く洗車しないと車によくありません。それにしても多くの車を塩まみれにまでしての、せっかくの融雪対策もちょっと遅れると効果がありません。ちなみに昨日はたとえ県境とはいえども融けるのが追いつかないほどの大雪でも強風でもありません。タイミングの問題だと思います。

 マタイ25章の10人の娘の話を思い出してしまいました。花婿を出迎えるために灯と「予備」の油を持っていた5人の娘に対して、予備の油を持っていなかった他の5人の娘は花婿が到着するころには灯の油が切れてしまって出迎えることができず、祝宴に参加できなかった…というイエス・キリストの話されたたとえ話です。

 「何か事が起こってから行動すればいいや!」…と考えているといざ事が起こってから何かをなそうとしても間に合わないこともあります。そもそも、普段、行なっていないといざという時は、動き出すことすらできなくなります。信教の自由の問題、教会の世代交代の事、次世代を担う伝道者の育成、やがては朽ちていく建物に対しての備え等、さまざまな問題があります。誰しも全ての備えができるというわけではないと思いますが、少なくとも教会や信仰生活に対してのあらゆる事柄に関心を持っていくことは大切なのではないでしょうか。
プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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