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じわりじわりと…

 ここ一週間ぐらい、本当に暑い日が続いています。

 先日、用事があって片道30分ぐらいの道をバイクで往復しました。車でもよかったのですが、妻が使用中であったのでバイクで向かいました。バイクに乗る時は普段は真夏でも安全の観点からなるべく長袖を着るようにしているのですが、暑さに負けて半袖で出かけて、帰ってみると両腕が真っ赤に!…往復で1時間ぐらいの間に思いっきり日焼けしてしまいました。

 バイクは停車中は熱いのですが、信号が少ない道などを走っていると気持ち良く風が当り続けるので、日差しの強さに気づかなくて油断してしまうんですよね。当たり前ですが走っていたからといって紫外線が減るわけではないので当然の結果です。逆に信号待ち等が多い方が日差しの強さに気付いたのかもしれません。

 罪というものは、誰でもそれは罪だと分かるようなものは案外気を付けることができますが、注意しなければならないのは、いわゆるグレーゾーンの部分です。本来罪の基準にグレーゾーンはないのですが、人の勝手な価値基準で「今の時代はこれぐらいならいいだろう…」と自らに納得させてしまうのです。その結果、徐々に罪におぼれ、いつの間にか罪の奴隷となっているということもあります。

 「聖書ってイエスかノーかしかないのが嫌だ!」というご批判を受けたことがあります。しかし曖昧な部分があると人の弱さというものを考えるとほぼ間違いなく完全に罪におぼれてしまう方に傾くでしょう。私たち人間は完全ではありませんから全ての罪を避けることなどできません。しかし、すぐに罪だと分かることを避けるのはもちろんのこと、聖書にあってはっきりと罪の基準をいつも持っているということは大切なのではないでしょうか。

 それはそうとバイクに乗る時だけ着けるアームカバーみたいのを探そうと思います。
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悔改めは方向転換です!

 先月「アメイジング・グレイス」という映画を見ました。奴隷貿易廃止に貢献した英国の政治家ウィリアム・ウィルバーフォースの半生を描いた映画です。賛美歌「アメイジング・グレイス」の作詞者のジョン・ニュートンもちらっと出ていたりしていまして、基本はキリスト教信仰が土台となっている映画でありながら、内容そのものも見ごたえのあるものでした。

 映画の中で、奴隷制度に強く反対する人々が砂糖を一切使用しないという場面が出てきました。それは、当時の砂糖精製が使い捨てのようにして働かされていた奴隷たちの犠牲によってなされていたからです。実際に危険な精製方法を強いて命を落とした奴隷が数多くいたそうです。奴隷制度を反対するからには、奴隷制度によって得られた恩恵にはあずからないという確固たる姿勢があらわれています。

 これって今の日本でも考えさせられることであると私は思います。それは原発問題に関してです。反対するからには、それなりの覚悟が必要であるということです。前から何度か言っているように私は決して原発推進派ではありませんし、福島を中心とした放射能汚染が一日でも早く終息して欲しいと祈っています。そして本当にそんなリスクの高い発電方法に頼らなくてもいいような世界になったらすばらしいだろうなと思っています。ただ、反対派の人々の中には「責任と決意」のない反対派の人々も多いのではないかと私は思っています。

 本当に今すぐ断固反対とするならば厳しい言い方ですが原発によって発電された電力は一切使用するべきではありません。特にキリスト教界は慎重であるべきです。聖書的に反対ならそれはそれでいいかもしれませんし、確かにそうであるかもしれません。しかし「それは罪だ!だから悔い改めて二度と原発が稼働することのないように行動を起こしていきましょう!」というのは矛盾点があまりにも多すぎです。

 まず第一に、悔改めは「方向転換」を意味します。「二度とその過ちは犯さない!」という決意の元に悔改めなければ、意味がありません。同じ罪を犯してしまうのは「仕方がない」ではなく、私たちの弱さです。故に「原発による発電を悔改めます!でも電気がないと困るから、再稼働された原発の電力を使用しても仕方がないですよね!神さま!」なんてのは悔改めではないのです。賛成反対に関わらず実際に再稼働している場所があるという現実はちゃんと受け止めるべきであると思います。これはただ反対する以上に責任の伴うことです。神との関係においての事ですからね。決意も責任のないのに軽々しく罪と断罪し、悔い改めるなんて言うべきではありません。以前、ある場所で原発を罪と定め、悔い改めることを祈ることを強いられたことがありますが(これははっきりいってパワハラです)、放射能汚染の問題や震災被災者のことを祈れても、原発を罪と断罪して悔改めますという趣旨の祈りには先ほど述べた理由のように到底賛同できませんから、その部分に関しては口を閉ざしていました。

 第二に原発=罪と断罪するなら(私はまだそれは決めかねますが)、罪の責任は取らなければならないのではないかということです。今までが罪であったとするならば、罪によって生じた不利益は甘んじて受けるべきであるということです。悔改めは罪をなかったことにするのではなく、赦していただくのです。たとえば刑法に触れるような罪を犯したとして、神の御前には悔改めれば赦されますが、犯した罪の責任は取らなければなりません。蒔いた種の刈り取りはするべきであるということです。原発問題で言うならば、廃炉にするにもリスクや年月や予算が必要です。原発を無くしていくためのリスクや長い年数という今まで何も考えてこなかったための負債は負うべきであって、「即座になくせ!」みたいな、過ちはなかったことにしましょう的な発想は過ちであると私は思います。あくまでもこれを「罪」と決めつけるならばの話です。

 最後に、これはキリスト教界ではありませんが(そういう人がクリスチャンにいないことを願います)、反対を訴えながら違法行為や迷惑行為をするならば、たとえ訴えが正しかったとしても説得力ゼロであるということです。例えばデモを行っていく中で警官の制止があってもそれを押しのけてでもいくとか(公務執行妨害です)、会社や学校の責任を放り投げてでもデモに参加するとかですね。私が一番やめてもらいたいことは、公道(特に車道が問題)を堂々と埋め尽くしてデモ行進を行っていたりすることです。当然許可なんてもらってません。道路の不法占拠です。立派な犯罪ですし、何よりも危険です。自分たちは正義のつもりでしょうが、正義の名の元に赦される犯罪なんてありません。先日のデモでも、道路にものすごい反対者が溢れかえっていました。車好きバイク好きの私にとってあの行為は絶対にやってほしくないです。法律そのものが理不尽なら別ですが、反対するならば、正々堂々と法律を守ってもらってやらないと正義と訴えている自分たちが悪になってしまいます。

 私自身は原発が今後どうあるべきかの答えはまだはっきりとは出ません。だから絶対反対とすることは今はできません。キリスト教界は、まずは祈ることから始めるべきであると思います。その祈りの結果が原発=罪と定めるなら奴隷制度を反対する人々が砂糖を一切口にしなかったように、一切電力を使わない暮らしをするべきでしょう。私個人としては「誰しも安心できるような発電のみに”いつか”なるようにという祈りをしたいと思います。
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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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