スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「私」は「みんな」

 現在、Facebookの利用者が8億人と言われています。私も登録しています(まだ使いこなせてないのでほとんど利用しませんが…)。懐かしい友人と再開出来たり、素早くそして広範囲にわたって情報交換が出来たりと大変便利なようです。コミュニケーションツールとしては非常に便利なものであることは私も疑う余地もありません。

 そしてFacebookの特徴は実名登録であるということです。相手が誰であるか分かっているからこそ安心して情報のやり取りが出来るし、書きこむ側にも責任が発生しますので、誹謗中傷の類は発生しにくいという利点があります。しかし便利であるが故に問題も起きます。いろいろな問題が世間では言われていますが私が気になるのは実名登録であるが故の問題です。私はFacebookのシステムを問題視するつもりは全くなく、利用する側のモラルの問題です。

 実名登録すると確かに書き込む側に責任が生じます。問題発言をすれば、責任はその人にいくからです。しかし、文責が自分にあるからといって遠慮なしに自分の考えや思想に基づいて批判的文章を書き込む人が少なくありません。「でも、それって責任は本人にあるから別に問題ないんじゃないの?」と思う方もいる事でしょう。本当にそうでしょうか?個人名が分かるということは、場合によってはその人がどのような団体に所属しているかもわかります。それに多くの人がプロフィールに職業や所属を記しています。特に私のような立場の場合は細心の注意を払う必要があると言えます。

 例えば私がFacebookで特定の個人や団体を批判した場合、それは場合によっては私が所属している日本同盟基督教団の意思と捉えられる可能性があります。「これは私の文責だ!」と言っても必ずしも周りがそのように考えるとは限りません。その為、私はブログでも、特定の考え方や特定の方面の分野を批判することはあっても、個人名や特定の団体を名指しで批判するようなことは極力避けています。自分の発言が知らず知らずのうちに間接的に関係者を傷つけることだってあるかもしれません。特にFacebookはお友達登録さえすれば世界中の誰でも閲覧可能ですから、どこでどのようにその情報が広がるか分かりません。親しい友人と実際に会って「自分はこう思っている!」と言うのとはわけが違います。

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。」(Ⅱコリント5章20節a)

 外交官が問題ある言動をした時に「これは私個人の問題だ!」なんて言いわけが国際社会で通用するでしょうか?もちろん通用しません。問題が大きいと国際問題に発展するでしょう。同様に私たちは御国におられる神から遣わされた存在です。私のような立場ならなおさらのことです。私も失言しないなんてことはないかもしれません。しかし、自分は一人ではなく、一教会の牧師であり、一教団の教師であり、そして神の国という一つの教会からこの世に派遣されている一クリスチャンであることを忘れないように心がけたいです。

 念のために言っておきますけど、大部分の人はFacebookを健全に利用していると思いますよ。私が心配しているのは一部の事と、可能性の問題です。
スポンサーサイト

 近年はハイブリッドカーブームです。限りある化石燃料に頼るのではなく、発電可能な電気の力を利用するという考えはごく自然です。それに燃費がいいのでお財布にやさしいわけです。普通のハイブリッドカーは下り坂や減速時等の惰性のエネルギー、またはエンジン始動時に充電するので、自ら充電する必要はありませんが、最近は「プラグインハイブリッド」といって、家庭用電源で充電することにより、大幅に燃費を向上させる車も出てきました。完全電気自動車もちらほらで、将来的にはガソリンエンジンが消滅するかもしれません。

 さて、自動車が電気化する流れと原発の問題は密接に関係しています。というよりも関係して考えていくべきです。時折、この関係性を無視してご批判をする方々もしますが、これはよくよく考えなければなりません。私は原発は危険であるという意見はその通りだと思いますが、もしなくすのであっても長い目で考えていくべきであるというのが私の個人的な意見です。

 即座に原発をなくすということは、再生可能エネルギーの普及率を考えると、原油や天然ガス等の化石燃料に頼らなくてはならないということを意味します。これは廃炉にする工程でも同様です。最終処理はどこで、どのように?どのぐらいの期間で?ということも考えて反対するべきでしょう。それでも「即座になくすべきだ!」という意見は根強いです。それはそれでその人の意見なので別に否定はしませんが、そういった方々はエネルギー問題に関心がある方が多いですから時折「ガソリン車なんて早くなくしてみんな電気自動車にしてしまえばいいのに!」という意見を聞きます。実際に私の知り合いでも「原発を即座になくした方がいい!」ということと「ガソリン車はは早くなくしてしまうべきだ!」という両方の意見を主張する人がいます。一見、エネルギー問題に関心があって前向きな意見なようですし、それぞれ一づつの意見の主張なら別にそれはそれでいいのですが、その両方を賛成とすることは明らかに矛盾してしまうことになります。

 エンジンって何で動いているでしょうか?火力発電って何で発電しているでしょうか?これを考えると、前述のような主張は簡単には出来ないはずなのです。化石燃料で動くエンジンをやめてモーターで動く電気自動車にするということは、それだけ電力の需要が増えます。それを補うために化石燃料で発電して車を動かす…バカバカしいとしか言いようがありません。それだったら最初からガソリン使った方がコストがかからないです。じゃあ天然ガスは?…ということですが、確かに天然ガス自動車を普及させたり、原油に頼るよりもコスト的にも環境的にもいいかもしれませんし、実際に発電はガスの方が割合的には多いでしょう。それに原油よりも埋蔵量はあるかもしれませんが、需要が増えれば、それだけ消費するのも早くなるわけで、根本的なエネルギー問題の解決にはなりません。

 エネルギーのような難しい問題は上っ面だけで簡単に賛成や反対はするべきではなく、長期的に、そして広範囲な視点で見て、どの分野でどのような影響が出るか、長いスパンで見るとどうであるか等をじっくり検討したうえで世論に意見を発信していくべきだと私は思います。専門家の意見は分かりませんが、専門家の方は、そのあたりが見えるからこそ軽はずみに賛成や反対の行動は起こさないのではないでしょうか。

 教会はキリストのからだです。何かの意見を推し進めるにも反対するにしても、自分一人ではなく、そのことによってどこがどのように揺さぶられるかを考える必要があります。キリスト教カウンセリングを行っているある先生が、紐と棒でつながれたいくつもの重りを家族にたとえて話して下さいました。ある一点の部分を少し揺さぶると、場合によっては発信源より揺れが強くなる場所があるということです。一人の痛みや行動が、教会というキリストのからだを通じて別の部分でより大きな痛みになることもあるんだということなのです。

 私たちは、いつも「全体」で考えていかなければなりません。「もし自分がこのようなことを行なったら、他でどのようなことが起こるか?」「もし自分が、このことを推し進めたら将来的にどのような影響が出るのか?」等、いつも広い視点で考えていくべきです。しかし、これは消極的にばかり捉えず、一つの行動が全体を祝福することもあれば、一つの決断によって将来が祝福されることもあるのだということも覚えておくべきだと思います。
プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

カレンダー
01 | 2012/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 - - -
リンク
最新記事
カテゴリ
カウンター
検索フォーム
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。