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足を洗う必要

 今月は黄砂に何回か車がやられまして。タイミングが悪く、2回洗車するはめになりました。私はたまにワックスをかけるので(数か月に一度だけですが)、わりとあっさりきれいになるんですけどね。

 黄砂のような砂ぼこりは、あまり長い間放置しておくことはおススメしません。砂のような汚れは、何かの拍子で車体と物が接触した時(服や葉っぱなど)、塗装を傷つける場合があります。洗う時も、いきなり洗うのはNGです。一度、車体全体に水をかけて砂を浮かせてからでないと傷がついてしまいます。

 しかし、砂ぼこりなどは、水アカのようにこびりついた汚れではありませんから、あっさりときれいになります。ワックスがかかっていればいっそう簡単に落ちます。厄介な汚れですが、表面にあるだけなので、軽く洗うだけでいいのです。その度に洗車するのは大変ですが、黄砂が年間を通してしょっちゅうあるわけではないですし、放っておいて車体の傷を引き起こしたら、その傷は洗うだけでは取れなくなってしまいます。



 「イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。』」(ヨハネの福音書13章10節)

 キリストの十字架の贖いを信じ、受け入れたものは、すでに「全身がきよい」救われた存在です。しかし「足」は洗う必要があるわけです。それは救われても尚、罪を犯してしまう私たちには必要なことです。その日々の悔改めがあってこそ信仰生活は保たれます。

 もちろん私たちの救いは決して変わることはありません。しかし、イエスが「みながそうではありません」と言って、いつも行動を共にしながらもご自身を裏切ったユダをさして言われたように、「私はもう救われているんだから悔改めなんて必要ない!」と思うならば、それは、厳しい言い方ですが「みながそうではない」の「そうではない」人々に入っているのだと私は思わされます。全身がきよいとわかっている人こそ足をあらう必要を感じることができるのではないでしょうか。
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隣人となる

 昨日、ある会議に出席しまして、司会の先生の最初の奨励で、ヨブ記6章14節が開かれました。

 「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。」

 大震災に見舞われたこの日本にあって、キリスト者が傷ついている人々に寄りそう大切さを学んだことであります。それはボランティアのような生活の助けであったり、福音を伝える事であったり、自らの賜物を生かし、励ますことであったり…人によってできることが違い、さまざまです。しかし共通していることは「神を捨て去ることがないように、落胆しているものに友情を!」というみことばの通り、私たちは実際に「行う」ということが大切であるわけです。

 もちろん、実際に被災者と関われるのは限られた人でしょう。しかしこのみことばの言わんとすることは、今回のような限定的な出来事に対してではなく、私たち教会の普段の姿勢が問われているのです。以前、ある教会で私が言われたことなのですが、礼拝中に、会堂の真ん中の列あたりに座っていたある婦人の方が、一番後ろに座っている私のところまでわざわざ来て「先生!私の前に座っている人が初めての人みたいで聖書が開けないみたいなんです!先生が手伝って上げて下さい!」と言われました。私は「すぐ後ろに座っているあなたが開いてあげればいいじゃん!」と叫びました(心の中で)。

 どの教会にも新来会者が来ます。そのような中でみんなが「あの人がフォローしてくれるだろう」なんて思っていたら、万が一その「あの人」がフォローしなければ、いったい誰がフォローするのでしょうか?先ほどの話のように「先生!お願いします!」といっぱい言われても私は一人しかいません。これは牧師も含め、教会に連なるクリスチャンすべてに課せられた使命ではないでしょうか。「自分は年代が離れているから…」「異性だから…」と言うのであれば、自らがパイプ役となって相応しい兄姉に導けばいいのであって、これは誰にでもできることです。またみことばをもって主が命じておられることでもあります。

 ルカの福音書10章に「良きサマリヤ人」のたとえ話があります。強盗に襲われ傷ついている人を祭司やレビ人は見過ごして行ったけど、通りかかったサマリヤ人がいたれりつくせりの介抱したというたとえ話です。これを「サマリヤ人はイエス様で、私たちには弱さがあって、できないようなこともイエス様はしてくださる!このたとえ話は自らの弱さとイエス様の愛との対比である」と解釈する方々もいますが、私ははっきり言います。

 それは大きな間違えです!

 このサマリヤ人にイエス様の愛を間接的に見ることはできるかもしれません。しかし、そのイエス様はこのたとえ話をされた後、「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われたのです。私たちはイエス様の愛に自らの弱さを隠してしまうのではなく、その愛を「分け与える」ものであるべきではないでしょうか。フォローするということに得手不得手はあるでしょう。しかし聖書は「あなたも行って同じようにしなさい。」「落胆している者には、その友から友情を。」を語るのです。やってみてできなければそれは主が受け止めて下さいます。まずは一歩踏み出してみることが大切であると思います。私自身、臆せず、踏み出して主の愛を分け与える隣人でありたいと願います。

「一部」と「全体」

 またしばらく更新をサボってしまいました。

 GW中は妻の実家に帰省したのですが、今年は本当に天気が良かったです。そのおかげか、帰省中の道のりで本当によくバイクを見かけました。実にツーリング日よりなのですが、家族で帰省するわけで、当然、車での帰省です。手元にバイクがないのが残念でした。

 ちなみにバイク乗りは妙に連帯感があるようですね。台数が車に比べて圧倒的に少ないのと、バイクは趣味性の高い乗り物なので、バイクに乗っている時点で共通の趣味だという認識が持てるのだと思います。私は天気のいい日にツーリングにでも出かけたいのですが、なんせ周りにバイク乗りがいないのでなかなか出かけられません。ショップなどで企画するツーリングはだいたい土日ですから、これもNGです。牧師が日曜にツーリングに出かけるわけにはいきませんから(笑)。

 ところで、こないだまで「奥多摩周遊道」というところが二輪が通行禁止になっていたのですが、この4月1日に解除されたそうです。私はこの場所には行ったことがないのですが、バイクのツーリングコースとして非常に有名な場所らしいです。

 何故、今まで規制されていたかというと、この道路における二輪の重大事故が多発していたことにあります。本当は統計的には車の重大事故が多発している道路なんてたくさんあるのですが、車を通行禁止にするわけにはいかないのと、バイクは台数が少ないので、ほんの数台でも事故を起こすと目立ってしまうわけです。世間は、本当にごく一部でしかない暴走族のイメージが強くて「やっぱりバイクは…」という先入観があるのだと思います。しかし、無謀なライダーがいて事故が多発したことも事実です。特に排気量の大きなバイクは車では考えられないような加速をします。自制しない人が乗るとエライことになります。

 実は私は昨年バイクを買い換えました。以前乗っていたバイクは乗り出してさほど経ってはいなかったのですが、20年以上前のバイクで、だんだん調子が悪くなり2回に1回はエンジンの始動が「押しがけ」状態となってしまいました。キャブレターとかオーバーホールすれば直るのだと思いますが、部品供給等、今後の事を考えて買い替えをしようと思ったのですが、それならばいっそうの事、昔から憧れていた「大型」にしようと思い、昨年、大型二輪の免許を取って900ccのバイクに乗り替えました。

 以前よりはかなり新しいバイクなので(とはいっても予算の関係で10年落ちのバイクですが)エンジンはいつも一発始動です。さすがに900ccともなるとふざけた加速をします。高校生の頃にこんなバイクに乗ってたら確実に事故ってただろうと思わされます。若い頃は乗れなくて、30代も後半に差しかかろうとするころにようやく乗れるのがちょうどよかったなぁと思わされます。大型二輪免許取得条件が法改正で16歳→18歳になったのもわかります。その代わり運転は楽になりました。同じ速度でも短距離のような感じで走るか、マラソンのような感じで走るかの違いです。気持ちいいですね。

 さて、話は戻りますが、先ほどの規制が解除された「奥多摩周遊道」ですが、私自身が大型バイクに乗るようになって規制がかかったのもわかるような気がしました。しかし、あくまでも一部の無謀運転者が原因であり、多くの人は大型バイクに乗っていても無茶はしません。逆に無茶をすれば400ccだろうと250ccだろうと危険であることは変わりありません。しかし、先ほども触れたようにバイク乗りは連帯感が強いようで「一部の心ない人々のせいでまったくもう!」とはならず(心では思っていても)どっちかというと「再び規制がかからないように、みんなでマナーを守った運転をしましょう!」という感じです。一部のマナー違反を責めたところで自分たちも同じバイク乗りであるという目で世間で見られている認識があるのだと思います。だからこそみんなで証しを立てていこうとしているわけですね。

 教会は完全ではありませんが教会外の人にとっては「一部だけだから」「私は違う」というのは通用しません。、内部でその弱点を攻めるのではなく、まず一人ひとりが主の栄光をあらわしていき、教会全体として証しを立てることが大切なのではないでしょうか。

 もちろん、先ほどのように一部の無謀運転で全国のライダーに迷惑をかけてしまう可能性があるのと同様に、自分のふるまいが、教会外の人からは教会そのもののふるまいとして見られてしまうこともあるのだという認識も大切にしていきたいと思います。
プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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