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信仰の駆け込み需要!?

 2010年最後の日となりました。

 明日から2011年になりますが、2011年は7月にテレビのアナログ放送が終了します。そうなる前に地デジ対応のテレビに買い替えるか、地デジチューナーを買わなければなりません。ただ、地デジチューナーだとブラウン管テレビなどでも一応放送は見れますが、本来の画質では見られないのと、ワイド画面対応の為におそらく上下が黒くなって画面が小さくなってしまうので、後々のことを考えると地デジ対応テレビの方がお勧めです。

 そうは言っても、チューナーなら安いものは数千円で買えますが、テレビそのものを買うとなると、だいぶ安くなったとはいえ、安い買い物ではありません。また、地方はアナログ放送も地デジが使用するUHFアンテナを使用していますが、東京などはVHFが中心で、UHFアンテナは補助的役割なので、アンテナ交換の費用が必要です。屋根の上にあれば自分で交換するとは簡単には行きませんからね。

 だからこそ、まだ二の足を踏んでいる人も結構いるわけです。しかし来るべき日は必ず来ますから、アナログ放送終了が近づくと、エコポイント半減の直前のように駆け込み需要が増えるのではないかと、私個人は予想しています。そうなると、在庫切れになったり、「どうせ売れるから」と言って値引きが渋くなったりすることが考えられます。そのような事は分かってはいても早めに出来ないのが人間というものです(笑)。

 信仰において「好き勝手に生きて、人生の終わりの直前に信じれば自由なのになぁ…」という、信仰の駆け込み需要を思う人が意外に少なくありません。私も昔、そんなことをチラッと思ったことがあります。だから、その気持ちは分からなくもありませんが、私たちの人生はアナログ放送終了のように未来が分かっているわけではありません。駆け込み需要を願っていても駆け込む暇がないかもしれません。「自分はまだ元気だ!」と思っても、主が再びこの地上に来られる日が来るかもしれません。それは誰にも分からないことです。だからこそ、来るべき2011年、すでに信じていることの恵みを覚えると共に、救われるべきたましいのために祈り、励んでいきましょう。
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雰囲気が大切

 クリスマスの一連の行事が無事終わりました。

 我が教会のクリスマス最後のイベントが「燭火礼拝」です。クリスマスイブ礼拝と呼んだりもしますが、五十嵐キリスト教会では「燭火礼拝」と呼んでいます。内容も字のごとくの内容で、ろうそくに火を灯しながら、クリスマスの賛美と聖書朗読を中心とした礼拝です。

 この燭火礼拝ですが、礼拝ですので、神を賛美し礼拝することが第一なのは当たり前なのですが、やはり雰囲気が大切です。暗闇に灯るろうそくの光は、真っ暗なこの世に一筋の光として来て下さったイエス・キリストを思わせます。このような厳かな雰囲気を味わいたくて教会に足を運ぶ方々も少なくありません。

 以前、ある教会のクリスマス・イブ礼拝に出席した時、最初の20分ぐらいは電灯を消して、ろうそくの火を灯していたのですが、説教前になったら、いきなりライトON!しかも白熱球ではなく、蛍光灯の照明であったので、急に明るくなり、あの厳かな雰囲気はどこに行ってしまったの?といった感じでした。教会側としてみれば、会衆が聖書が見ずらいとか、説教者への配慮とかあるんでしょうが、それは普段教会に来ていない人には分からない事情です。

 私たちクリスチャンにとっては神を礼拝することの大切さは分かっていてはいても、普段、教会に来ていない人にとってみれば、それは信仰をもって初めて分かることであって「雰囲気」というものは意外に大事だと私は思っております。「皆さん!24日の夜は是非教会へ!」と宣伝しておきながら雰囲気を無視しては、人によっては裏切られた気持ちになってしまいます。

 これはクリスマスのイベントに限ったことではありません。これはあくまで私個人としての意見ですが、日本の教会建築は、雰囲気をあまり考えない設計が多いように感じます。もちろん時代の流れというものがありますから、30年前と現在とでは違うことでしょう。最近は、雰囲気を大切にした教会設計がされているところも多いですが、すべてではないと私は思います。だからといって建物が簡単に建つわけではありませんが、燭火礼拝のように、工夫次第で、人々に教会を伝えていくことも可能なのではないでしょうか。

イメージ先行の害

 先日、フィットのリコールが発表され、最大73万台が対象だそうです。「うわー!スゲー数だ!」と思うことでしょうが、フィットの全体の販売台数を考えれば、さほど驚くことではありません。だって、フィットなんて道路を眺めていれば、一回は必ず見る…というぐらいどこにでもある車ですから。そして我が家のフィットも、車体番号をメーカーのHPで調べたら見事にリコール対象でした。そのうちダイレクトメールが来るでしょう。でも私は何とも思っていません。最近の傾向として、私から言わせれば「たかがリコール」でニュースにする風潮がある現状を異常に思っています。その原因として主に二つのことが挙げられます。

 一つは「リコール」=「悪」のように捉えられてしまっていることです。しかし、それはどうなんでしょうか?欠陥がない方が良いに決まっていますが、車は人間が作っているんですよ。神が作っているわけではありません。むしろリコールによって不具合が無償で改善されるわけですから良いことではないでしょうか。しかし最近はニュースでリコールを、あたかも珍しいことのように取り上げますが、そんなことは日常茶飯事で行われていることです。嘘だと思うなら下記の国土交通省のHPでリコールの届け出がいかに頻繁に行われいるかを確認してください。

国土交通省リコール情報HP

 つまりリコールがきちんと行われているということは、メーカーがしっかりと改善してよい車にしていこうという意思の表れですから良いことであるのです。先ほども言ったように、どんなに綿密にやっても、完全無欠な車は最初からはできません。逆にリコールの届け出がない方が怪しいわけです。これがリコールを異常とイメージしてしまうもう一つの理由です。つまり「リコール隠し」の問題です。しかし当然のことながら、リコールの発表があったということは、リコール隠しをしていないといことです。

 今回のフィットの件も、2001年式~が対象になっているので「そんな10年近く前の車なんて今更…隠していなんじゃないか?」という少数意見もありますが、ただ単に不具合が出るのに時間がかかっただけです。どの物質でもそうですが、ある程度の経年変化を経て、やっと不具合が発生することは自然なことです。私が以前乗っていたシビックも、燃料ポンプのリコールになりましたが、この不具合も5、6万キロ走行してやっと見つかるような不具合であったので、すぐに発見することは不可能であったことでしょう。逆に経年変化でへばっていた燃料ポンプが無償で新品になって劇的なパワーアップをして嬉しかったぐらいです。

 どのメーカーでもあらゆるテストをしますが、皆さん考えてみて下さい。実際に何万キロも走ってテストするなんてことできると思いますか?できっこないです。そんなことしたら開発コストでフィットがフェラーリのような価格になっちゃいます。それにそんな時間をかけていたら、開発が終わるころには型遅れの車になってしまいます。つまり、ある程度の年数が経ってからリコールとなることは、別に隠していたわけでもなく(そのような事件もありましたが、それはほんの一部のことです)、当たり前であることなのです。そんなわけで、リコールのすべてが善だとまでは言いませんが「リコール」=「悪」というイメージを抱かせようという情報には注意が必要です。

 教会の中でも、そのような先入観でイメージを抱くことはないでしょうか。時に私たちは「若者」=「過激」であるとか、「デジタル化」=「世俗化」というような先入観を抱いてしまいます。もちろん過激な若者や、教会に相応しくない近代技術とかはあるとは思いますが、それはほんの一部でしょう。そのような先入観だけで、青年との壁を作ってしまったり、音響など電子機器の導入に抵抗を覚えたりします。

 しかし本当にそれで良いのでしょうか?実際に教会の将来を担っていくのは青年ですし、音響が充実した方が、より福音をはっきりと伝えることができます。私は断言できます。このような先入観はみことばの裏付けは絶対にできません。それに実態を推測だけで正確には把握していないでしょう。教会は先入観やイメージで決めていくのではなく、みことばの土台の元で、正確な現状把握によって形成されていくべきではないでしょうか。

止める?それとも続ける?

 しばらく更新をサボってしまいました。バタバタしてたりして、一度、更新が途切れると、再開するのがなかなか大変だったりします。なので、なるべく週一ペースぐらいで更新できれば(目標ですけど)と思っております。こういうことって、二面性がありますよね。一度始めると、止めずらくなったりしますから。私は今のところはストップするつもりはありませんけど、こういったことって人間の性質ですよね。

 教会の働きも、この二面性で悩まされます。その内容によってさまざまです。一度、止めてしまうと、再開が大変なので続けていること、本当は止めてもいいのだけど伝統的に続いているだけに止められないこと、いつでも止められいつでも再開できること…等々一色淡には考えられないわけです。

 そのような中で、教会の働きは判断を誤らないようにしなければなりません。本当は止めてもいいのに「伝統」という名の元に縛られてしまったり、本当は続けるべきなのに「人が少なくなったから」といって止めてしまったりします。私たちは何を続けるべきか、何を止めるべきか、そして状況によってそのどちらも可能であるものは何かということを判断していく知恵を神様からいただきながら教会の働きをなしていくものでありたいです。

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 続けるべき働きの一つである教会の子ども会です。先日は大勢のお友だちが来てくれました。影絵やコンサート、ケーキデコレーションなどを行い、楽しいひとときでした。蒔かれた種の芽が出るのは神様の働きですが、こうした種蒔きの働きは続けるべきであると思います。もちろん、共に重荷を負ってくださる方々がいてこその働きです!
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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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