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本当に「全部」が無駄?

 政府の事業仕分けとして、今度は特別会計の事業仕分けがなされるようです。無駄があることは間違いないと思いますので、削減できるところは大いに削減していただきたいと思いますが、「無駄があるから、その特別会計は全面廃止!」というような短絡的な結論は出さないでいただきたいと思います。前回でも感じたことですが、経済や経営の専門家ばかりではなく、その事業の分野の専門家や現場の声というものをもっと取り入れて、改善ですむものは改善という形にしていただきたいと私は思っております。

 私が気になるのは自動車検査手数料の特別会計です。これはいわゆる車検の時に国土交通省管轄の陸運局内の検査業務を行っている独立行政法人に支払うお金です。ニュースでは仕分人の方々が「検査料は、ちゃんと適切に使われているのか?」「そもそも国が車検事業を行う必要があるのか?」など、つっこんでいましたが、自動車業界にいた私としては仕分け人の、その認識自体につっこみどころが満載でした。

 いくつかをつっこむと、まず検査手数料ですが、たったの1400円です!はっきり言って、民間では一台でその金額であると経営を維持することはまず不可能です。「だって、車検て何万もかかるじゃないか!」と思っている金額の大部分は税金と保険料です。それを「無駄!」と言ってなくしてしまったら大変なことになります。検査に必要な設備もどの事業所でも簡単に設置できるという金額のものではなく、現在は「指定工場」といって検査設備や敷地、有資格人員(自動車整備士の他に、自動車検査員という資格が必要です)、実績等をクリアして国から認められた工場だけが独自に検査をすることができます。それ以外の工場は、車検整備整備を行って、検査だけ国でやってもらうという形をとっています。なので行政が行う部分を無くすと、何の実績もなしにいきなり車検業務のすべてをまかせなければならないという非常に危険な事態になります。

 また、ある仕分人の方は、その行政が行っている検査業務を「軽自動車みたいに民営化すればいいのでは?」とつっこんでいましたが、軽自動車の検査は確かに民営化されていますが、「軽自動車検査協会」という民間法人が行っており、ついこないだ事業仕分けの対象になったばかりです。それを同じように民営化すればいいというのですから意味がわかりません(笑)。もちろん無駄なこともあると思いますが、無駄な部分だけを省けばいいのではないでしょうか。存在そのものが無駄というのなら仕方がないですが…だからこそ私は、ちゃんとその道の専門家や、実際に携わっている一般の人々の意見をよく聞いてほしいと思うのです。

 教会にはいろいろな人々が集います。また、教会にもいろいろな教会があります。ともすると私たちは一部の違いや誤りをもって、その人や、その教会を全否定しがちです。しかし、本当にそれでいいのでしょうか?違う部分をもって「一緒になんかできない!」と思うのではなく「この部分なら同じだから一緒にできる!」という歩み寄りが必要です。また「あの人の、こういう部分が間違っているから、あの人とは交われない!」と言って排除の方向にいくではなく、その誤りを正してあげることによって、さらに良い関係を築いていくことができるはずです。たった一本の虫歯で総入れ歯にする人なんていないわけですから…。

 しかし、その一部が破壊的批判や異端の教え、身の危険が及ぶ等、教会や信仰の根幹を揺るがす場合は別です。そういう場合は毅然とした態度で臨むべきです。
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同じ土台、そして個性

 ホンダのフィットにハイブリッドが出ました。しかも159万円~という驚きの価格!まったく同じエンジンとモーターを積んだインサイトが189万円~なので、驚異的です。逆に言うとなんでインサイトは30万円も高いのだろう!?フィットハイブリッドがどれだけ売れるかはまだ分かりませんが、とりあえずプリウスの一人勝ちではなくなることは確かでしょう。

 このフィットですが、じつはプリウスよりも燃費は悪いです(インサイトも)。それは、トヨタとホンダのハイブリッドカーの考え方が違うからです。トヨタはとにかく燃費重視です。エンジン出力のあまりいらない0km~の動き出しや下り坂などは、エンジンをオフにしてモーター駆動のみにしてガソリンの消費を抑え、流れに乗るときの加速時等はエンジンを動かします。勿論、信号待ち等でのアイドリングストップ機構が付いています。

 一方、ホンダ車はモーターをエンジンの補助動力と考え、基本的には常時エンジンが動いている状態で、加速時等はモーターと併用して、より力強い加速力を得るような設計になっています。感覚的にターボチャージャーのような過給機の役割に近いと思われます。私はホンダのハイブリッドカーはまだ乗ったことはありませんが、多くの人はホンダのハイブリッド車の加速の力強さを高く評価しています。その代わり、常時エンジンが動いているので、燃費の面ではトヨタに劣るわけです。とは言っても、カタログ燃費は、普通のフィットが24.5km/ℓに対し、ハイブリッドのフィットは30km/ℓですから、燃費が断然いいのは確かですし、常時エンジンONとはいっても、アイドリングストップ機能はちゃんと付いています。

 というわけでトヨタとホンダ、どちらのハイブリッドカーが優れているかは、一概には言えないのです。要は、ハイブリッド車としての基本構造は同じであるけれど、その味付けや個性が違うということでしょう。ユーザーには、その個性によって車種を選択する自由が与えられているわけです。

 教会は様々な教派が存在します。時に多くの教派が存在すりことがキリスト教を批判する理由にされたり、また教派間ではその逆で交わりが遠慮がちになったりします。しかし私は、そのどちらも正しい考え方ではないと思います。基本構造が同じ車であっても、さまざまな個性によって多くの車種が存在するように、同じ聖書を土台としても、その個性が存在することは決して悪いことではありません。もし、それを認めないのであれば、それは抑圧的なキリスト教になることは間違いありません。

 また逆に個性の違いだけで、お互い避けていくというのも正しいことではありません。一緒にできないこともありますが、一緒にできることも多くあります。聖書は一つですからね。私のいる地域でも、この秋に大規模な超教派のイベントが企画されていますが、それは喜ばしいことではないかと思うのです。個性は尊重しつつも、同じ聖書信仰の下で宣教協力がなされていくことを望みます。

 ただし、その聖書は、すべて誤りなき神のことばであるという告白のもとでなければなりません。その一線を越えてしまうと、個性の違いの範疇ではなくなってしまします。あくまでも私たちは、「同じ聖書のみことば」を信じる者として個性を尊重し、また宣教協力をなしていくのです。

立てられた者の責任

 『ダビデはサウル王を倒すチャンスはいくらでもあったが、神様を信じているダビデはそれをしなかった。「主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」(Ⅰサムエル26:11)。どんな事情があっても主に油を注がれた方を大切にすることは教会の祝福の源であり、その反対は教会も個人も祝福を失うのだから。』

 一見、「おーなるほど!」と思えるような文章ですが、じつはこれは、ある教会の機関紙で、その教会の牧師本人が掲載した文章の一部です。その教会のHPに公開されている文面なので、名前を伏せる必要はないのですが、一応、教会名は伏せさせていただきます。私はこの文章を見たとき、衝撃を受けました。このようなことは教会に招かれたゲストメッセンジャーが言うことはあっても、その教会の牧師本人が文面にして言うことがあろうとは正直思わなかったです。今回はご批判は承知の上で記事を書かせていただいております(文責は教会ではなく、私個人にあります)。

 先日、所属教団の研修会で、教会のカルト化やパワハラに関しての発題がなされたばかりであったので、よけいに違和感を覚えたことであります。やはり、どのような教会にも、このような危険性が潜んでいるのだと改めて思わされ、また同時に自分自身も牧師として身の引き締まる思いです。そもそもダビデがサウルを手にかけなかったのは、立てられたものであるからという理由もありますが、それ以上に「さばきは神に委ねる」という神への信頼から来るものでした。それはⅠサムエル記24章12節の「どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。」というダビデの言葉からも明らかです。つまりダビデはサウルの行為を良しとは決してしていなかったということです。結論ありきで聖書を引用すると、時に解釈を誤らせます。

 教会において「立てられたものだから従っていく」ということは大切なことです。しかし、何故、従うかというならば、それは「神を信頼する」が故です。神の正義故に立てられた者に従っていくのです。だからその神の正義に反するならば、時に立ち上がることも必要でしょう。例えば、私が信徒に向かって「イエス・キリストは神ではありません!」と言ったとします(あくまでも例えばです)。そんな時、教会の信徒の皆さんには全力で戦い、私を追い出していただきたいと思います(笑)。

 また誰しも過ちを犯します。それは神の前には誰であれ同じ過ちです。立てられている者だからいいということは断じてありません。むしろ、ヤコブの手紙3章1節に「 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」とあるように、立てられた者だからこそ、赦されないこともあるのだと思います。

 少し批判めいた文章になりましたが、これは「教会」という群れを考えるとき、決して間違ってはならない大切なことであるので書かせていただきました。私自身、教会は信徒のものでも牧師のものでもなく、神のものであることを心に留め歩んでいきたいと思います。

 
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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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