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教会の将来

 夏になるとバイクをよく見かけるようになります。新潟のように雪国であるとバイクに乗れる期間は限られますので、なおさらでしょう…とはいっても昔に比べればだいぶ減っています。この不況の状況にあって、四輪車の販売台数が伸び悩んでいることは皆さんご存じの通りですが、二輪市場はもっと深刻な状況です。1980年代は二輪の出荷台数がピークを迎え、300万台以上であったのに対し、現在は30数万台とピークの十分の一程度まで落ち込んでいます。私が二輪の免許を取った1991年頃は二輪市場はまだまだ活気がありました。

 このような二輪市場の落ち込みは、125cc以下の原付1種、2種といわれれる、いわゆるミニバイクの販売台数の大幅な減少が大きな原因となっています。ミニバイクの販売台数が大幅な落ち込みを見せているということは、つまりどういうことかというと、その中心的ユーザーである若者のバイク離れが進んでいるということです。私が高校生の時、クラスの男子学生の原付免許保有率は、校則で免許所得が禁止であったにも関わらず、3人に一人は原付免許を保有していました。現在は、四輪の免許の時まで待って、わざわざ原付免許まで取らないという人が大半を占めています。私としては淋しいですが、無理やり乗るものでもないので、仕方がないでしょう。

 しかし、意外なことに126cc以上の軽二輪、そして251cc以上の小型二輪は減少はしているものの、全体から比較するとさほど大きな落ち込みではありません。大型バイクに関しては、免許改正の関係で逆に増えたぐらいです。以前は、401cc以上の運転免許は排気量の制限を解除する「限定解除」というものが必要で、しかもそれは自動車学校では取れず、直接試験場で合格するしかなかったのです。これは非常に難関で、一ケタの回数で合格すればまだマシな方だと言われていたぐらいです。しかし、1996年ぐらいでしょうか、免許が改正され、401cc以上は「大型二輪」と新たに設けられ、さらに自動車学校での教習が可能になりました。そして免許改正をきっかけに30代~50代の方々が、若いころに高嶺の花であった大型バイクを乗るようになったリターン組が増えています。その証拠に、大型バイクの代名詞ともいえる「ハーレー・ダビッドソン」はいまだに年々国内販売台数を伸ばしています。

 このことから何が言えるかというと、バイクそのものの人気は減少はしているものの30代以上の世代には、一定の支持を得ているということです。つまり、1980年代のバイクブームのピーク時にバイクに乗っていた方々が、そのまま30代~50代となって、現在の二輪市場を支えているわけです。とはいってもいずれ限界が来ます。70代、80代にまでなってバイクを乗り回すのは少々無理がありますからね(絶対ではないですが)。つまり、国内メーカーが真剣になって若者に興味を持ってもらうようにしないと、いずれは二輪市場は消滅してしまうかもしれません。

 日本の教会、いや世界中の教会の多くは群れの高齢化という深刻な問題を抱えています。たとえ全体の人数が増えていったとしても若い人々が教会に集い、将来の教会を支えていかなければ、教会にはいずれ誰もいなくなってしまいます。そのためにも、現在教会に集っているみんなが若者を支えていかなければなりません。そうなるとやはり中高年層への伝道も重要なことで、あらゆる世代への宣教が急務であるということです。

 とはいっても、同じ百人教会であったとしても、その中での若者の比率によって、20年後、30年後には大きな差が生じます。教会は人数がすべてではありません。しかし、同時に人数がいないと教会の働きを存続していくことは困難です。福音を宣べ伝えるという視点ではまさに全世代に向けての働きかけが必要です。しかし、教会を建て上げていくということを考える時、青年宣教は決しておろそかにするべきではないことであると私は思います。結局はバランスということでしょうか。
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「ひとり」と「みんな」

 夏です!暑いです!キャンプの季節です!

 今年も私はバイブルキャンプの奉仕をすることになっていますが、最終ミーティングを先日終え、一段落しているところです。…とはいっても一段落しているのはプログラムの計画の方で、これからキャンプ当日に向けて準備していくことが多々あります。しかし、キャンプ当日を迎え、キャンパーの恵まれていく様を見ていく時、そんな苦労などどうでもよくなります。

 バイブルキャンプ場には、専任のスタッフも勿論いますが、その方々だけでプログラムキャンプを運営するのは無理で、地域の教会が協力してこそ成り立つものです。その多くは、他に自分の役割を持っています。会社であったり、学校であったり、教会奉仕であったり、私のように牧師も多く関わっています。もちろん、優先順位的に、第一とすべきものは第一としなければなりませんが、第2、第3の働きをしなくてもいいということではないと私は思います(自分のキャパシティを超えない範疇でということですが)。

 私は牧師ですから自分の遣わされている教会の働きが第一です。しかし、同時に地域としてどのような働きができるかを考えていかなければならないと思います。ある教会の牧師は単立でも十分成り立っているような大きな教会であったにも関わらず「自分たちの教会だけ恵まれていればいいというのはよくない!」と、団体に加入しました。「自分たちの教会さえよければ…」と思っていると、きっと自分たちの教会さえも祝福されないでしょう。逆に、地域の教会の祝福は同時に自分たちの教会の祝福につながると私は考えます。「地域として、世界として」という広い視点を持つことが大切ですね。そういった意味で地域のバイブルキャンプの働きは私は大切にしていきたいと思っています。

 「三銃士」で「一人はみんなの為に、みんなは一人の為に…」という言葉がありましたよね。何か、これも地域の宣教協力と通じるところがあるなぁと思わされております。つまりは「一つ」のことに対して、時に一人、そして時にみんなの為に働いていくということでしょう。私たちにとっての「一つ」とはもちろん「福音宣教」です。その一つの為に、自らの遣わされている教会において、そして地域の宣教の働きにおいて私自身の役割を考えていくものでありたいです。

「バッシング」…その根拠は何?

 先日、米国の調査機関がトヨタの電子制御システムの欠陥問題の調査において「欠陥はない」とし「運転手の操作ミスなのでは?(つまりアクセルとブレーキを踏み間違える)」との結論を出しました。米国自動車産業関係者は「アクセルペダルがフロアマット等に引っかかり、戻らなくなった可能性はまだある」と述べていましたが、逆にその発言は、電子制御に欠陥はなかったことを認める発言でもあります。米国でのトヨタに対する風当たりはまだまだ強そうですが、信頼回復は時間の問題でしょう。

 トヨタの電子制御問題の一連の報道がアメリカでなされた時期、日本のマスコミも同じようにして、電子制御を疑う報道が相次ぎました。その影響からか、日本国内を走っている車でも電子制御を疑う声が出始め、いまだにトヨタ車のリコールが出るたびにニュースで取り上げられたりしています。リコールなんてどのメーカーも普通にあることなんですがね。

 日本国内ではトヨタ車は圧倒的なシェアです。それだけ人々に支持されているということなのだと思いますが、ひとたび何かあると根拠なしに自国のメーカーをいとも簡単にバッシングします。アメリカ側がバッシングするのは、いろいろな意味で理解できますが(決して良いことではないですけど)、明らかな欠陥があるわけでもないのに一緒になって自国のメーカーを批判するのはどうかと私は疑問に思います。冷静にそのメーカーを評価するならば、支持するべきか、しないべきかがおのずと見えてくるのではないでしょうか。故障だって、絶対しない車なんて存在しませんからね。故障率からするとトヨタはかなり低い方で、あえて名前は挙げませんが、トヨタより圧倒的に故障率が高いメーカーなんていくらでもあります。別に私はトヨタ党というわけではないですよ。あくまでも客観的な判断です。車もバイクもホンダ車に乗ってますし(笑)。

 イエス・キリストはエルサレム入場の際、大勢の人々の大歓声で迎えられました。まさに救世主のような待遇です(実際にそうなのですが)。しかし、その週末には人々の歓声は「十字架につけろ!」という罵声に変わります。あれだけ喜んで迎えたのに、こうも短期間で何故?…と疑問に思うような変貌ぶりです。これが人の弱さであると私は思います。民衆は本当の意味での救世主としてではなく、自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれるヒーローのように思っていたのでしょう。それが違うと分かると手のひらを返したように態度が変わります。また、冷静に主イエスの目的を理解しようとせず、ただ周りの状況で判断したために、ある声に流されるようにして「十字架につけろ!」となってしまったとも言えます。

 トヨタ車を支持するのに「みんな乗ってるから!」という理由ならば、乗る人が減ればその人はいとも簡単に別の車を乗ることでしょう。しかし「品質が信頼できるから」と理由であるならば、たとえ周りが違うメーカーの車に乗り換えても、変わらず乗り続けることでしょう。同様に私たちは周りの状況や自分の勝手な価値観でイエス・キリストを信じているわけではありません。もしそうであるならば、自分に都合の悪いことだけ切り離して信じたり、嫌なことがあるといとも簡単に信仰を捨て去ったりしてします。私たちは「聖書のみことば」という揺らぐことのない真実故に信じることができるのです。それは周りが変わろうとも、時代が変わろうとも、自分自身の感情が変わろうとも、決して変わらない真理です。この真理を土台とした信仰生活を送っていくものでありたいです。

「全体」と「個人」

 先日、サマージャンボ宝くじが発売となりました。(※この記事は宝くじ購入を推奨するものではありません。念の為に…)一攫千金を狙う多くの人々が行列をなしている光景がテレビで中継されていましたが、毎回、宝くじ発売の度に大行列をつくるのが東京○座のとある宝くじ売り場です。私も、東京に住んでいた時に、一度、その行列に遭遇しましたが「芸能人でも来てるの?」といった感じの大行列にびっくりした記憶があります。

 このような宝くじ売り場は全国で数か所あると思いますが、その理由はみなさんもご存じの通り、過去の高額当選本数が多いという理由です。また、購入枚数にも傾向があるらしく、高額当選者の購入枚数の統計によると、たくさん買った人が上位なのではなく、1位が30枚、そして2位が10枚だそうです。このような売り場や購入枚数のデータから、少しでも当選確率を上げようと工夫をする人が多いわけです。報道では「当選確率は同じはずなのに、このようなデータがあることは無視できない!」と言っていましたし、実際にデータを無視していないから、○座とかに行列ができるわけです。

 しかし、みなさんの夢を奪うようで申し訳ないのですが、はっきり言って、このデータはあてになりません。何故なら、実際に売り場ごとの当選確率は、多少差はあっても、そんなに変わらないはずだからです。何故、一部の売り場で多くの高額当選者が出るかというと、答えは簡単です。大勢の人が買った分、それだけ「売り場」としては多くの高額当選が出るのは当たり前なわけです。おそらくですが、一昔前にたまたま、その売り場から高額当選が多く出て、結果的に多くの人々が購入し、そして、その分、当選本数が増えたのでしょう。「最初に多く出ることが珍しいのでは?」と思う人もいるかもしれませんが、確立と統計の観点から言えば、そんなことは当たり前なことです。例えば、サイコロの1~6の目の出る確率はすべて「6分の1」ですが、6回サイコロを振ってすべての目がバラけるなんてことの方がめったになく、実際は同じ数字が何度か出ることが普通なわけです。それを特別な意味があるとして「この売り場は当たりやすい!」となって多くの人が訪れ、結果的に当選本数が多くなったのでしょう。

 そして購入枚数の件も全く同じで、100枚、200枚と大量に買った人よりも、30枚、10枚と買った人が当たりやすいと思われている統計も、実際にそんなことはなく、普通に考えると分かることなのですが、宝くじに何万円もつぎ込む人よりも「1万円以内ぐらいなら…」と思う人の方が圧倒的に多いわけですから、高額当選者の購入枚数が、このような統計になることは自然なことです。もちろん、そういった事実を認識したうえで理論無視で、いわゆる「げんかつぎ」でその統計を利用する人もいると思いますが…つまり結論は、統計上、売り場や購入枚数に傾向があるように見えても、一人ひとり、1枚1枚の当選確率は決して変わらないということです。

 教会では、場合によっては「統計」というものを大切にしなければなりません。しかし、その統計が真実であるか、そして、一個人として考えた場合、その統計は意味をなすのかということを冷静に考えなければなりません。その代表的な例が「教会学校」です。近年、日本の多くの教会で教会学校の子どもたちの減少が深刻な問題となっています。その理由として、信仰継承の問題や、地域の年齢層の問題が挙げられたりしますが、時折「近年の日本の少子化の影響で…」という声を耳にしますが、断言できますが、それは大きな誤りです。何故ならば、日本の子どもの減少率と、教会学校の子どもの減少率には大きな差があるからです。教会の子どもの減少の原因を「少子化」というならば、、同じ減少率でなければならないわけですが、日本の少子化のスピードよりも教会学校の少子化のスピードの方が遥かに早いのです。しかし、それら二つを比較したような統計は見たことがありません(少なくとも私は)。統計というものは正しく用いられてこそ意味をなします。

 また「トラクトを1万枚配っても1人しか教会に来なかった…」とか「ホームページを開設しても1日に数人しか閲覧されていない…」等、「統計」で私たちは思い悩んだりすます。もちろん大勢の人が教会に来てくださったり、多くの人に教会のHPを見ていただきたいのですが、全体の確率がいくら上がっても、福音は一人ひとりに向けられているものです。逆に言うならば、トラクトが1万分の1しか用いられなかったとしても、その一人にとっては唯一のものとなります。誰にも代われるものではないのです。私たち教会は、大勢の人が教会に訪れることを願うと同時に「その一人の為に!」という情熱をもった福音宣教の働きをなしていくべきではないでしょうか。

「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。」(マタイの福音書18章12節)

その目的は何のため?

 過去、マツダからロータリーエンジンの自動車が何車種か発売されました。このロータリーエンジンというものは、軽量コンパクトで高出力、なおかつ部品点数が少ないのでオーバーホールがし易いという良いことだらけのエンジンなのですが、反面、耐久性と燃費が悪くあまり普及しませんでした。

 このロータリーエンジンですが、何故、高出力であるかというと、レシプロエンジン(いわゆる普通のエンジン)がクランクシャフトが2回転で一回の燃焼を行うのに対して、ロータリーエンジンは、エキセントリックシャフト(クランクシャフトと同じ働きをするも)が1回転で1回の燃焼を行います。つまり、ロータリーエンジンは、普通のエンジンの2倍爆発するわけですから、高出力であるわけです(だから燃費が悪いのです)。しかも、普通のエンジンがピストン運動を回転運動に変えているのに対し、ロータリーエンジンは、その名の通り、初めから回転運動なので、なめらかなモーターのような加速をします。

 このロータリーエンジン、650ccのエンジンが2気筒で1300ccぐらいのエンジンなのですが、パワーは2000ccスポーツカー並みのパワーがあります。トルクが細いのでターボで補っていることが多いですが、それを抜きにしても、通常の1300ccとは比べ物にならないぐらいパワーがあります。燃費は2000cc以上に悪いですが…しかし、国もよく考えたというか、セコイというかビミョーな所なんですが、自動車税が、ロータリーエンジンの場合、1.5倍換算されるんですよ!つまり、実際は2000cc並みの自動車税を支払わなければならないということです。燃費や排ガスの問題も大きいのでしょう。

 逆に、燃費や排ガスの問題が少ないハイブリッドカーや電気自動車は優遇されています。もちろん、その考えは正しいと思いますし、環境問題を考えれば、当然と言えば当然かもしれません。でも、その観点から言うと、少々疑問が残ります。それは、何故、自動車税を徴収するかという理由です。ロータリーエンジンは、出力や燃費の関係で税金を1.5倍取られます。だったら、週末しか乗らないとか年間の走行距離が少ない人は、それだけガソリンも使わないし、排出ガスも少ないんだから自動車税を優遇してもいいのではという意見もあります。しかし、行政の考え方は「自動車は財産とみなします!」ということなんです。だから年間の走行距離が0kmだったとしても、自動車税はしっかり満額支払わなければならないのです。何か、それだったら燃費とか排ガスとか関係ないような気がしますが…矛盾を感じます。

 あくまでも私の予想ですが、この矛盾が解消されない限りは、おそらく日本のハイブリッッドカーの割合が高くなると、税収が減るからと言って、別の自動車税の算出方法が考えられると思われます。このままでは「ビール→発泡酒→第3のビール」みたいな、いたちごっこが展開されるのではと私は心配しています。そうなると自動車開発が「如何にして魅力的な自動車を作るか?」から「如何にして税金の安い自動車を作るか?」に変わってしまうような気がします。そうなると夢も希望もないです。過去を辿ると、自動車っていわば人々の「夢」です。そのような希望の中で、自動車開発がなされていき、自動車産業がここまで発展していったのです。勿論、環境に対する配慮はしなくてはなりません。しかし法律も、自動車はただの移動手段だけのものではないということを理解しながら改正していって欲しいものです。

 教会は時代のニーズに応じて変化が必要です。しかし、変化する中で、その目的を見失ってはいけません。「こうすれば若者がもっと来るのではないか?」「このようなニーズが現代の高齢化社会に必要なのではないか?」など、時代に沿って教会は変化を遂げます。けど、気をつけないとそれがいつのまにか「人集め」が目的になってしまします。「この方法はもう人が来ない。次はこの方法だ!」…等、教会は実際的にそのような対応をしていくのですが、あくまでも目的は「人々を救いに導くこと」です。その為に大勢の人が教会に集って欲しいと考えるから、工夫をしていくわけです。

 私たちは変化を繰り返し、人が来る来ないのいたちごっこを繰り返す中で、いつの間にかその目的がすり替わってしまってはいないでしょうか。実際にその変化の中で目的が変わり、「福音」がすっぽり抜けてしまっている教会がないとは言い切れないのが現実です。たとえ教会に人が集っても、その人が救われ、さらに教会に仕える者となってこそ、やっと当初の目的が達成されるのです。私たちは時代の変化に翻弄されることなく日々、原点はなんであるかに立ち返るものであるべきではないでしょうか。

 ちなみに現在、新車で買えるロータリーエンジンの車はマツダの「RX-8」のみです。ちょっと寂しい気がします。
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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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