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私たちの罪の為に…

 先日、某自動車工場を車が暴走し、12人もの死傷者を出したという痛ましい事件が起きました。車好きの私としては、車をそのような道具に用いられることは非常に悲しい気持ちになります。まだ捜査段階で明確な動機は分かっていませんが、一つ言えることは、何らかの不満を持っていたとしても、容疑者が傷つけた人々は、その不満とは全く関係ない人々であったということです。工場の敷地内で無差別に人をはねていったわけですから、それは間違いのないことです。

 もちろん、不満の原因がその人にあれば傷つけていいなんてことは絶対にありません。ましてや関係ない人々を傷つけることは、いかなる原因があっても許されることではないのです。近年、そのような事件がよく起こります。秋葉原の事件もそうです。そのさらに前には小学校に乗りこみ、全く関係のない大勢の子どもたちが犠牲になった事件もありました。近年、問題とされている児童虐待も、その根は子どもに原因があるのではなく、自分が受けたストレスのはけ口を、関係のない我が子に持っていくという分析をする専門家も多いです。統計的に日本の殺人事件は減っているそうですが、昔よりもニュースでよく耳にするような印象を受けるのは、予想を超えたこのような事件が増えているからでしょうか。あくまでも私の推測ですが…

 イエス・キリストはおおよそ二千年前、十字架にかかられ死なれました。当時、十字架刑というものは、死刑の中でも一番残酷なものだと言われていました。現に、その後の時代にはあまりにも残酷すぎて十字架刑が廃止されたぐらいです。ではキリストは、何の罪の為に十字架刑になったのでしょうか。殺人でしょうか?強盗でしょうか?それとも人の悪口を言ったり、憎んだり…とささいなことでしょうか?

 答えは、そのすべての罪故に十字架にかかられました。しかしキリストがそれらの罪をすべて犯したわけではありません。それどころか、一つの罪も犯されなかった方であったのです。キリストは、私も含め、すべての人々のあらゆる罪をその身に負われ、十字架にかかられました。ご自身にとっては、何一つ身に覚えのない私たちの罪の罰を身代わりに受けられたのです。世の中では、自分の不満を関係のない人々にぶつけるような事件が後を絶ちませんが、キリストは全人類のそのような悪い思いを自ら背負われたのです。ここに神の大きな愛が示されているのです。その愛に応えるべく感謝と喜びをもって神に仕えるものでありたいです。

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙第一2章22~24節)
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それって偏見?

 昨年でしょうか、「電子制御コンバインドABS」というブレーキシステム搭載のスポーツバイクが出ました。私は非常に興味があるのですが、大型二輪なので私の普通二輪免許では運転できません。まぁ、大型二輪免許を取ること自体は、すでに普通二輪を取得しているので、あまりお金や時間はかからないのですが、問題は車両価格ですね。バイクなのに軽自動車並みの価格ですので、それなら軽自動車を買った方が便利です。そもそも私が二輪を乗っているのは趣味もありますが、維持費や車両の価格が軽自動車を買うよりもだいぶお得だからなんです。

 このブレーキシステム、何がすごいかと言うと二つの特徴がありまして、一つは「コンバインドブレーキ」であるということです。これは、その名が示す通り、複合ブレーキだということです。オートバイは前輪を右手のレバーで、後輪ブレーキを右足で操作します(スクーターとかは別ですが)。しかし、結構最適な制動力を得るためには前後のバランスが難しく、前輪ブレーキが強すぎると後輪が浮いてしまったり、前輪がロックして転倒の危険があったりします。逆に後輪ブレーキが強すぎると、前にあまり荷重がかからず、制動距離が延びたり、後輪がロックしたりして危険です。車種にもよりますが、一般に7:3で前輪ブレーキを強めににかけるのがいいと言われています。そのような配分をオートバイの方で行ってくれる装置が「コンバインドブレーキ」です。これがあると前後配分に神経を使う必要がないので、だいぶ楽になります。

 もう一つは「電子制御」であるということです。コンバインドブレーキとABSの双方を電子制御化したオートバイは世界初だそうです。「えっ!ABSって普通は電子制御じゃないの?」と思う方もいるかもしれませんが、一般的にABSは、大雑把に言って、車速やスリップを検知してブレーキのONとOFFの信号を送るだけで、ブレーキの力そのものは人がコントロールします。しかし、このABSシステムは従来の検知に加え、前後のブレーキ配分、また、ブレーキの圧力までもコンピューターがコントロールします。ブレーキは信号を送って、モーターが作動して最適に前後輪のブレーキ配分・圧力・タイヤのロック等を、すべて電子制御でコントロールするというわけです。普通のABSは作動すると「ガタガタ」と返しがありますが、このシステムはそのような振動は殆どなく、いつABSが効いたか分からないうちにバイクが止まっているそうです。凄いですねぇ~!勿論、これはあくまでもブレーキを「補助」するシステムなので、ちゃんとブレーキをかけないと止まらないということは言うまでもありません。

 そうなってくると逆に不安をよぎる人が多いのではないでしょうか。「ブレーキまで電子制御で、もし何かあったら大丈夫なの?」ということです。ブレーキは自動車やバイクの中で一番大切な部分でもありますから「もし、コンピュータがおかしくなったら?」と考えるのも当然かもしれません。しかし、それはある部分では「偏見」があるのではないかと私は思っています。「電子制御だと故障したら危険!」という偏見です。しかし、電子制御だろうと、機械式だろうと、故障したら危険であることには変わりありませんし、電子制御が故障すると何か「暴走」のようなイメージがあることも偏見です。

 そして、故障する確率は機械的なシステムよりも電子制御システムの方が遥かに低いことも付け加えておきます。アメリカで自動車の電子制御の不具合の有無で一時期話題になりましたが、実は故障の統計をみると、機械的なシステムの方が故障が多いです。プログラムって経年変化による劣化なんてありませんが、機械的なものはは経年変化による劣化って当然ありますからね。飛行機だってそうです。あらゆる計器や制御が電子制御ですが、機械式であった昔と比べると、事故の確率は格段に減っています。実際に体験もしていないのに「電子制御だったら危ない!」というのは偏見であると(全部とは言いませんが)私は思っています。

 教会というところも偏見があったりします。例えばここ5、6年である国のの牧師が問題を起こした話題が何件かありましたが、その影響で「○○国の牧師はヤバイ!」みたいに世間がなっていたりしますし、教会であってもその影響がないわけではありません。しかし、私は明らかにそれは民族差別ではないかと思うのです。何人かその国の牧師が過ちを犯したということは事実です。しかし、日本人牧師は一切過ちを犯していないと言えるでしょうか?答えは「ノー」です。むしろ、世論に知られていないだけで、過ちを犯し現場を退いていく日本人牧師は世間でニュースになっている国の牧師の何倍もいるということが残念ではありますがそれが実態です。

 私は「牧師とて過ちを犯すのだから仕方がない」とは思いません。牧師であるからこそ赦されないことはあるのです。それは国籍は関係なく、どの牧師も自覚しなければいけないことであると私は思います。「○○人は過ちを犯す!」というのは、まさに偏見です。文化の違い故に、うまくやっていけないこともあることは事実ですが、それは過ちや罪といった事とは全く違います。偏見は、あらゆるところに存在する危険があります。確かにその人の立場や過去が、その人の弱さや誘惑になることもあるかもしれません。しかし「牧師といっても元ヤ○ザだから…」とか「あの人は過去に、こんな酷い生活をしていたクセに何がクリスチャンだ!」等…立場や過去だけで決めつけてしまうことのないようにしたいものです。

導く者の責任

 私が卒業した高校は制服での登校が校則で義務付けられていました。現在は自由化の高校が多くを占めますが、当時は指定された制服での登校をする高校の方が多かったです。そのような中で、毎年のように生徒会で「制服の自由化」という要望が出されていました。決められた制服での登校が不自由であるということもありましたが、そのデザインも不評であったようです。男子は上下黒一色のブレザーの紺のネクタイ、女子は上下あずき色のブレザーのストライプのネクタイ…と、特に女子は不満を持っている人が多かったようです(私はそんなに不満はありませんでしたが)。

 結果として、私が卒業した次の年度から制服が自由化されたのですが、私が高校3年生の終り頃に自由化の校則のの試験運用がなされました。しかし意外に制服で登校する人や一部を制服で登校する人が多かったんですね。上下完全な私服という人は少数派でした。もう慣れていたということや、私服だと洗濯が大変であったということもあったのでしょう。

 今日の話題は、そのことではなく、制服自由化の試験適用をするために生徒会から「自由化になるまではしっかりと校則を守りましょう」ということになり、しばらくの間、校門で生徒会による制服チェックが実施されました。私はズボンは制服で、上は白のポロシャツ、そしてノーネクタイという格好で行きましたら、生徒会の方に止められまして「制服自由化の為に、しっかりと校則を守って下さい!」と注意されました。ワイシャツも着ないで、ノーネクタイで、それは注意されるよ!…と思った方もいることでしょう(ちなみに上着は衣替え中だったので着てません)。

 しかし私の中では「はぁ?何をおっしゃる?」という感じです。実は校則には何て書いてあるかと言うと「襟付きの白を着用すること」と記されています。つまりワイシャツでなければならないという規定はまったくありません。さらにネクタイも校則によれば指定はされていますが、着用は義務ではありません。別に私はわざと法の目をかいくぐって意地悪したわけではなく、普段の格好をしていただけであるのです。現に、そのような服装の学生は多かったです。もちろん校則違反ではないので、注意する先生なんていません。結局、注意された生徒会の方には「違反ではないはずですが?」と言ったら不思議そうな顔をして黙ってしまいました。校則を取り締まる側が校則を熟知していないのはちょっと困ります。全部覚えろとはいいませんが、せめて制服の部分だけでもしっかり見ていたらよかったのにと思いました。

 そういえば、以前、山梨で自動車専用道で一般道と同じスピード違反の処理がされ、200人以上の人が違法な免停処分になっていた事件がありましたよね。ちなみに一般道の免停になってしまう速度は30キロ以上ですが、自動車専用道は40キロ以上なのです。このような事件が結構、何県かであったようで、酷いなぁと思ったことであります。警察の発表だと「自動車専用道との認識がなかった。指導を徹底する」と言っています。先ほどの校則と一緒で、規則を熟知していない人が取り締まりをしていたということです。でも不思議ですよね。地元の白バイ隊員や覆面パトカーなどの普段からその道路で違反の取り締まりをしている人が、そんなこと間違えるはずがないと思うんですよ。これは私の推測に過ぎませんが、いわゆる「ネズミ捕り」は、多くの人を動員しなければならないので、普段、その地域でスピード違反を取り締まっていない人を動員したのではないでしょうか。その為に、取り締まる側の認識不足が、過ちを引き起こしたと私は思います。

 さて、教会の話題ですが、聖書の基準で歩んでいるクリスチャンが、認識不足故に、誤った導きをしてしまうこともなくもありません。罪ではないことを罪と指摘されたり、逆に罪であることを「そのぐらいなら大丈夫!」と導いてしまったりしまうことがあります。勿論、クリスチャンだからといって過ちを犯さないわけではありませんし、聖書の教えを全部理解できるかといえば、それも困難なことです。しかし、自分ではなく、人との関わり合いの中では、これは注意しなければならないことです。

 あるクリスチャンが「そんなの大丈夫だよ!」と人を導き、後になって本人が聖書の理解を深めていった時に、それが重大な罪であることに気づき、大きな罪悪感に襲われることだってあります。私の知り合いには「先祖が犯した偶像礼拝の罪があなたの内にある!」と言われ、恐怖におそわれた人もいます。勿論、それは誤った聖書解釈です。私たちは一生をかけても聖書のすべてを理解することは困難かもしれません。しかし、人を導いていくときは、それが聖書の真理であると確信をもって言えることだけを伝えていかなければなりません。それを思う時、牧師の責任は重大です。牧師とて、聖書を学んでいきながら成長させていただいているのですが、少なくとも誤った聖書の真理で導くことのないように心がけたいです。

左もダメ!右もダメ!じゃあ、どっち?


 矛盾を感じる事件(!?)が過去にありまして、以前、MR-2を単独事故で廃車にしてしまったことをお話ししましたが、自走不能だったので、レッカーに引き上げてもらいました。その業者が「どこに運ぶ?まだこの車をどうするか決められなかったら、とりあえずうちの工場に持っていってもいいよ」と言われたので、工場に持って行ってもらうことにしました。結果的に当時通っていた専門学校で、教材として引き取っていただけることになり(普通に廃車にすると1万円ぐらいは最低かかりますからね)、私の車を置いていただいていた工場から引き上げることにしました。

 2日後ぐらいにその工場に引き取りに行ったのですが、請求書の明細を見ると、その中に「駐車料3000円」という項目がありまして、尋ねると、「あなたの車を置いてあるところは、私たちの会社がよそから借りている土地なんです。だから駐車代がかかります。」と言われ「なんじゃそりゃー!」と思いました。「おたく、まだ処分が決まっていないんだったらうちで預かるって普通に言ってたじゃん!そんなの事前に言ってよ!それに、その土地が賃貸だろうが所有地だろうが、お客さんには関係ないじゃないか!」と「心の中」で叫びました。自動車整備工場が客の車を預かるのに駐車料を取るなんて聞いたことがありません!

 とは言っても、穏便に済ませたかったので、そのまま支払いを済ませようとしたら、思ったよりもレッカー代の金額が高くて持ち合わせがありませんでした。「すみません!持ち合わせがないので、また今度、改めて引き取りに来ます。」というと「そうなると一日1500円ずつ駐車料が加算されますがよろしいですか?」という驚きの発言がありました。当時の学校の授業の関係で次来れるのは1週間後ぐらいになってしまう可能性があったので、駐車料金がすごいことになってしまうと思い、「それじゃぁ、車だけとりあえず引き取らせていただいてもいいですか?」と尋ねると「うち、そういうの嫌なんだよね。だからお金を払うまで車は渡せないよ。」というさらに驚きの答えが返ってきました。

 それでは、どういうことでしょうか?お金を払わないと車は渡せないけど、車を渡すまでは駐車料がどんどん加算されていくというわけですか!まさに矛盾もいいところです!最初にレッカーで引き上げてもらうときに「とりあえず、うちで預かるよ」という発言の意図が理解できました。あー、そういうことだったんですね!若い人は単独の事故率が高いのですが(私も当時は21歳)、若い世代は、そんなに簡単に高額なお金を工面できません。多くの若者は、修理しようか?それとも廃車にしようか?レッカー代も払わなければ!…など、しばらく悩むので、すぐに引き取ることができないことが多いのです。まさにそこに付け入った作戦でしょう。私は穏便に済ませたかったのですが、理不尽な支払いをしたくないので、結局は、事前説明がなかったことを指摘して駐車料は無料にしてもらいました(普通は無料なんですけどね)。

 教会は、そのような矛盾がないようにしなければなりません。一方で「いいですよ!」と言ったものが、もう一方で「ダメです!」となると教会は混乱を招きます。その人に応じて対応を変えられる範囲のことはいいですが、聖書のみことばは別です。私たちは弱いですから、聖書のみことばをいとも簡単に曲げてしまうことがあります。「自分が真理と思ったことが真理なんだ!」となると、A兄には真理であるものがB姉には真理とは限らない…という矛盾が生じてしまいます。

 先ほどのレッカーの話もそうですが、右も困る!でも左もダメなんだ!となっては、一体、何が正しいのかということになってしまいます。そうならない為に、私たちは、自らの基準で聖書のみことばをねじ曲げて受け入れるのではなく、誰が読んでも変わらない真理として受け止め、また伝えていくべきではないでしょうか。

「私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。」(ヤコブの手紙3:12)
 
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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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