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その規制は本当に正しい?

 今から5,6年前までになるでしょうか…当時、自動車には馬力の自主規制というものが存在していました。自主規制とは「あんなにパワーのある車が野放しでいいの?」という声が高まり、法律で規制される前に国内メーカー側で自主的に規制を設けようという措置です。軽自動車は64馬力、普通自動車は280馬力で、二輪は排気量ごとに設定されていて、~50ccが7.2馬力、~125ccが22馬力、~250ccが40馬力、~400ccが53馬力、~750ccが77馬力、それ以上が100馬力だったと思います。しかし、現在は軽自動車の64馬力を除いては、撤廃されています(日産GT-Rは480馬力!)。ちなみに輸入車や逆輸入車(一旦輸出して、もう一度輸入した車)は適用外なので以前から280馬力以上の自動車や100馬力以上の二輪車があります。

 この馬力の自主規制、今となっては撤廃されているのでいいのですが、法律で規制されることを回避した為とはいえ、前々から疑問に思ってました。規制の理由としては「事故防止」という名目があると思いますが、私ははっきりと言わせていただきます!事故に馬力は関係ありません!

 二つ理由を挙げたいと思うのですが、一つは自動車事故の統計によるところからです。ある保険会社の統計によると、一番多い自動車事故が追突になってました。あとは追突も交差点内のことが多いですが、基本的に交差点での事故が多いです。言うまでもないですが、追突や出会いがしらの事故は馬力なんて関係ありません!統計的に馬力のあるスポ-ツカーの事故率が高いのは確かですが、私は言いきってもいいです!それはスポーツカーに乗るドライバーのなかに自制心が足りない人がたまたま多いからです! (みんなではないですよ)昔の私もその一人だったと反省してます…

 「スピードの出し過ぎによる事故は少なくても、重大事故につながるじゃないか!」と思うことでしょう。しかし、基本的に馬力とは無関係です。だって、スピードなんて、ドライバー次第ですから!一般道を軽自動車で100キロで走行することも、500馬力のフェラーリで50キロで走行することも簡単ですからね。昔、当時の自主規制いっぱいの280馬力のスープラに乗っていた私の横を猛スピードで軽自動車が追い越していくなんてことはよくありましたよ(笑)。ようは車に規制をかけても、ドライバーが自制しなければ意味がないということです。

 もう一つの理由は、馬力が高いと加速力があって、あっという間にスピードが出てしまうんで、危ないのではないかと思われやすいですが、無関係ではないですが、それは勘違いです。馬力とは、いわゆる「仕事量」なので加速とはあまり関係がないのです。例えば、Aの人が10キロの荷物を50メートル往復させるのに1分かかるとして「1馬力」だとします(便宜上です)。Bの人は、力がなくて荷物は五キロしかもてないけど、足が速くて1分で2往復することができて、結果的に同じ重さの荷物を移動させたとします。するとBの人も「1馬力」となるのです。つまり、自動車に置き換えると、どんなに加速力がなくてスピードが出るのに時間がかかっても、エンジンの回転数を高くして足を速くすれば、いくらでも馬力がでるというわけです(エンジンの限界はありますが)。つまり馬力は最終的にどれだけ仕事をしたかなので最高速に関係してきます。たぶん自動車なら180馬力ぐらい、二輪車なら50馬力もあれば200キロぐらい出ますから(国産車は180キロでリミッターが作動しますが…)、日本の道路事情下では馬力規制など意味がありません。

 では、何が加速力を生み出すかというと、それはトルクです!トルクとは、回転軸にかかる力がどれぐらいかという数値なので、トルクの大きさは加速力に直結します。また、トルクはエンジン特性によっては、低中回転域から大きなトルクを発生させることができるので、馬力が低くても大きな加速力を得ることが可能です(ターボやスーパーチャージャーなんかその典型的な例です)。なので加速力のある車に乗りたい方は車のカタログは、馬力を示す最大出力よりも最大トルクの数値を重視した方がいいです。たとえ馬力に少ししか差がなくても、トルクに大きな差があれば、加速すると全く別物であることがわかります。つまり、「あっというまにスピードが出て危ない!」というならば、馬力ではなく、トルクを規制しないと意味がないわけです。まぁ、私としては規制されては困りますし、トルクを抑えるにはエンジンの排気量を小さくするしかないですから、現実的ではないでしょう。

 今日の結論としては、5馬力の原チャリに乗ってても、飲酒運転すれば走る凶器と化しますし、480馬力のGT-Rに乗ってても安全運転なんていくらでもできる ということです。規制するべきものがなんであるかを見誤らないでいただきたいものです。そんなわけで、自主規制が撤廃されたのは喜ばしいことなのですが、日本の排ガス規制や騒音規制は世界一厳しいとも言われています。特に二輪車なんてエンジン小さくてエコなんだからもう少し緩和してもいいような気がします。

 今回はここで終えますが、教会も、正すべきところ、許容すべきところが適切であるように心がけたいものです。
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先行投資!?

 最近、事業仕分けが話題になっています。私としては、もう少し慎重に、必要なものと、そうではないものとを協議してほしいと思っています。担当議員は各分野の専門家の意見をどれだけ聞いたのだろう?…と疑問に思うことも多々あります。本当に無駄と思えるようなこともありますけどね。

 数回に渡って行われている事業仕分けですが、私が感じたことの一つが「先行投資」のような分野での仕分けは難しなぁということです「二位じゃダメなんですか!」という、あのような分野です。医療研究の分野や温暖化対策等、このような分野いわば「先行投資」のような面があり、すぐには結果がでないことが多いです。もちろん無駄遣いはけしからんですが、使うべきところはしっかりと使った方がよいかと私は思います。こういったことは今結果がでていなくとも、将来、必ず必要になってくると思います。例えば、道路の公共事業の予算も大幅に削られましたが、今は「道路なんて十分ある!」と思っていても、近い将来、一斉に訪れるであろう道路の老朽化にどうやって対処するのだろうと思ってしまいます。とはいっても私は政治や経済はシロウトなので、見守るしかない部分もありますけどね。

 教会の働きとは「先行投資」のような要素が非常に多いのではないかと思います。「投資」という言葉は相応しくないかもしれませんが、まだ見えていない結果に対して、人的にも経済的にも神様にささげていくという点で「先行投資」です。予算に相応しく歩まなければならないことは事実ですが、だからと言って何でも省いてしまうことはよくありません。

 例えば、教会学校の分野は、すぐに結果なんて出ません。しかし十年後、二十年後になって、その子どもたちが教会を支えて行く存在となっていくのです。私たちの教会も、現在、子どもは非常に少ないですが、たとえ少なくとも必要な予算を組んでいます。そのようにしてすぐに結果がでなくともささげることが大切であることが教会の働きにはたくさんあります。もちろん、その為には神様に信頼していく信仰が不可欠です。神様に信頼していく教会の働きをなしていくものでありたいです。

自分さえ良ければ…

 今週は、とある用事ができて郷里の長野まで行ってきました。高速道路を使わないで長野を往復する場合はいつも上越周りのR18ではなく、津南方面のR117を通ります。今回も帰りはR117方面のルートを通りました。新潟県から長野県に行く場合は、妙高~信濃町を通るルートの方が一般的で交通量も多いですが、こちらの津南~栄村辺りは、交通量が少なく、ゆったりとした感じで流れています。

 このR117は、片側1車線にしては珍しく、制限速度が60キロの区間があります(通常は50キロの事が多い)。おそらく県境の辺りは民家が少なく、歩行者が殆どいないからでしょう。この辺りは交通量も少ないので、非常に気持ち良く運転できます。しかし、片側1車線なので、先頭の車がノロノロ運転だと交通量は少ないのに、時折、大きな列ができます。2車線だと問題ないのですが、1車線の場合は追越しする場所が限られますので、詰まってしまうわけです。まったくもって迷惑なのですが、せめて制限速度近くは出してほしいです。制限速度よりも20キロも遅い40キロとかで走られると、後ろにどんどん車が詰まっていきますし、場合によっては危険なこともあります。中には後続車が詰まったのを確認すると「別におれはスピード違反をしていない!」と言わんばかりに、さらに速度を落とす悪質なドライバーもいます。自動車学校でも、安全な所は交通の流れを妨げないために制限速度でしっかりと走るように教えているはずですが…

 そんな場合、私はノロノロ運転の先頭のすぐ後ろを走っている場合は、さっさと追い越してしまいます。よく、1車線で追い越すドライバーを見て、「乱暴な運転だ!」とか「そんなに急いでどうするんだ!」とかいう人がいますが、それは偏見です。センターラインが黄色でない限りは、追越しは法的に認められている行為です(スピードの出しすぎは注意しなければですが)。また、先頭のすぐ後ろのドライバーが「前が遅いので仕方がない!」と言って、そのままノロノロ走ることはあまり良いことではありません。もちろん運転技術と相談しながらですが…何故かというと、自分自身は追越しの必要性を感じなくとも、その後ろに連なっているドライバーは、そうとは限りらないからです。すぐ後ろの車がさっさと先頭を追い越すことにより、後続車が追越しし易くなります。そうでないと、2台や3台をいっぺんに追越すドライバーが出てきて、逆に危険です。そうならないように、私はノロノロ運転の車が前にいる時は、後続車の事を考えてなるべく追越します。

 皆さんはどれだけバックミラーやドアミラーを見るでしょうか?車線変更の時以外は見ないという人が案外いるのではないでしょうか。以前、私が自動車関係の会社で働いていいた時、若い新入社員が、自動車置き場から工場に自動車を運転してきて、その車を見たら、何とドアミラーが折りたたんだままになっていました。他の社員が「どうやって運転してきたの?」というと、その新入社員の答えは「えっ!ドアミラーたたんでましたか?」という驚愕の答えが返ってきました。つまり、普段、運転する際、ドアミラーを見る習慣がないということです。普段から見るクセがついている人は、走り出してすぐに「あっ!」と気づくはずですからね。

 何故、ドアミラーの話をしたかというと、たとえ直進しているだけでも、たまに後続車両の状況を確認して「だいぶ後ろが詰まっているな」とか「後ろの車、追越ししたがっているな」とかを配慮する必要があるからです。「自分だけ走っている」という感覚であると、前の車は見ても、後ろの車まで確認するに至りません。ノロノロ運転の車がいて「別に私は気にしていない!」と思っても、その後ろの多くのドライバーが気にしている事もあるのだと、配慮が必要なのではないかと私は思うのです。

 教会において、ある人が過ちを犯したり、非常識な言動があったりするとします。そんな時、よく問題となることが、人によって図り縄の尺度が違うということです。厳しすぎる人もいれば、甘すぎる人もいます。その言動を受け入れることができる人もいれば、どうしても受け入れることができない人もいます。これは非常に難しい問題です。しかし、大切な問題です。そんな時、注意が必要なことが「自分はあんな言動があっても気にしないから、あなたたちも受け入れなさい!」と言ってしまうことです。みことばの真理とは、あまり関係のないところでは、ある程度はいいかもしれませんが、真理に触れる部分の場合は、過ちを犯した本人を見てつまづかなくとも、その過ちを、そのまま受け入れた人を見てつまづいてしまうこともあります。

 道路でドアミラーを確認しながら「自分は平気だけど、他の人は平気ではないかもしれない」という配慮が必要であるということです。例えば、聖餐式のぶどう酒ですが、多くの教会は「ぶどうジュース」を使用しています。たまに極端な禁欲主義的な考えの牧師がいて「聖書でイエス様が飲んだぶどう酒は、実はぶどうジュースだ!だからアルコールを飲むべきではない!」などという意見がありますが、それは皆さんのご想像通り、ただの詭弁です。なぜアルコールではないかというと、他の人々への配慮の為です。「別にあんな少量のワイン飲んでも全然平気だ!」と「自分」はいいと思っても、アルコール依存症から立ち直った人にとっては、全然平気ではありません!一滴でもアルコールを口に入れたらおしまいです。においですらダメであると言います。未成年のクリスチャンの場合にも無理があります。多くの教会は、そのようなことを配慮し、ぶどうジュースを使用します。

 このような配慮は、何も聖餐式だけではなく、多くの場面で必要です。自分自身が平気でも、その受け入れた自分を見て、平気ではない人がつまづいてしまうかもしれないといつも考えることが必要なのではないでしょうか?「私は男の長髪が受け入れ難い!」とか趣味の問題とかまで配慮する必要はないと思いますが(笑)。いずれにせよ、道路が自分ひとりだけで運転していないのと同様に、教会も自分ひとりだけしかいないわけではないと思うことが大切なのではないでしょうか。


「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」(Ⅰコリント8:13)

新潟聖書学園

 今週は、所属教団青年部主催の青年キャンプに行ってきました。参加者が少なく、奉仕者の方が多かったたキャンプでしたが、それはそれでゆったりとみんなと交わることができた良いキャンプでした。キャンプは参加者が多く活気があるということも恵みですが、単純に人数では表せない恵みがあるのだということを今回のキャンプで実感しました。

 さて、今回キャンプが行われた場所は、新潟県柏崎市にあります「聖ヶ丘バイブルキャンプ」という場所です。この青年キャンプは、聖ヶ丘を会場にして今回で4回目となります。この聖ヶ丘バイブルキャンプには同じ敷地内に「新潟聖書学院」という聖書学院があります。そしてキャンプと学院を合わせて「新潟聖書学園」と言います。私も後援会の働きをさせていただいています。バイブルキャンプの働きの大切さは言うまでもありませんが、特に聖書学院は日本海側唯一の神学教育機関です。

 神学校や神学大学、そして聖書学院等の神学教育機関の多くは、関東や関西の都市部に集中しています。もちろんさまざまな面で、都市部にあるということのメリットはあります。しかし同時に地方に置かれていることの大切さもとても大きなものであるのです。地方に存在するからこそ導かれる方々もいます。また、自然の中でみことばに深く耳を傾けることができるのも魅力です。新潟聖書学院ならではの独自性もありまして、少人数ならではのニーズに合わせた学びや、信仰の成長を願うすべてのクリスチャンの為に設けられている1年コースの「聖書科」の存在も貴重です。

 献身者育成の為の「神学科」は高卒資格(あるいは同等の学力)で受験資格があるのもありがたいです。「聖書学院」と呼ばれるところはそのような所が多いです。私はこの学院出身ですが、私にとって本当にこの事は大きなことであるのです。多くの神学校は基本的に大卒が条件です。もちろんこれは、高卒を差別しているのではなく、より深く専門的な神学の学びをするために必要であるからです。しかし当時の私は最終学歴が専門学校卒なので、神学校に入るにはどこかの大学を卒業しなければなりません。しかも私は、一度会社務めをしているので、経済的にも年数的にも現実的ではありません。なので「聖書学院」の存在は無くてはならないものです。現に、私が共に学んでいた仲間の多くは大卒ではありませんでした。

 勘違いしてほしくないので説明しますが、神学校の受験資格と比べてしまうと「高卒資格の聖書学院で、ちゃんと牧師を養成できるのか?」と思ってしまいますが、決してそんなことはありません。確かに神学的に専門的な深い学びをするということは神学校にはかないません。しかし、基本的なことはしっかりと学ぶことができます。私の所属教団にも教職受験資格を認めていただいております。もし、私が牧師をしている中で知識の足りなさを感じたり、指摘されたりするならば、それは聖書学院のカリキュラムのせいではなく私自身の問題と思ってください(笑)。聖書学院の多くは地方にあるということもあり、近年の献身者不足と合わせて、運営的に厳しい状態のところが多いです。しかし、皆さんに考えていただきたいことは、もし各地方で「聖書学院」が無くなってしまう事態が起きたたら、たとえ意図していなくとも、結果的に「大卒以外は牧師になるな!」ということになりかねないということです。それこそ差別です。一番大切なことは神様からの召命ですからね(”最低限”の資質というものは必要だと思いますが)。

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聖ヶ丘バイブルキャンプ場です。
チャペルや体育館もあります。食堂はアットホームな雰囲気です。毎年、主催キャンプや、今回のような貸出キャンプが行われ、多くの人々が神様から多くの恵みをいただいています。皆さん、是非ご利用下さい。
(※ちなみに写真は、今回のキャンプとは関係ないときのヤツです…)



 どうか皆さん、新潟聖書学院も、もちろんそうですが、各地方にあります聖書学院の働きの為にお祈り下さい。そして是非、献身者を送っていただきたいのです。また、そのためにも「バイブルキャンプ」の働きは重要です。献身者の中でバイブルキャンプを通して信仰を持ち、献身に導かれ方々は非常に多いからです。是非、全国のバイブルキャンプの働きのために、そして聖ヶ丘バイブルキャンプの働きの為にお祈り下さい。
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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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