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個人として、群れとして

 近年はインターネットが発達して、キリスト教界においても、多くの分野で用いられています。私共の教会もHPを持っていますし、私自身も、こうしてブログを利用させていただいています。そのような中で「いきなり教会に足を運ぶのは難しいけど、ネットなら…」という方々もいることを思うと、福音宣教の働きのためにネットの分野が利用されていくことはとても良いことであると思います。

 一方で、マイナス要素もあります。そもそも、ネットは個人的傾向が強いので(普通は一人で閲覧、またHPやブログのアップをしますからね)、キリストのからだである教会としてではなく、個人の偏った考えが入り込みやすいのです。信仰や教理といった面以外でなら、まったく問題ないと思いますが(私もだいぶ趣味に偏っていますからね)、そうでないと個人の考えが、あたかも、その団体の総意のようにして発信され、お互いに誤解を生んでしまいます。現に多くの掲示板で「福音派vsリベラル派」であるとか「カトリックvsプロテスタント」であるとかの論争が展開され、目を覆いたくなるような酷い論争が繰り広げられています。

 私は「プロテスタントの福音派」の立場ですが「上記のような論争を避け、みんな互いの主張を認めあっていきましょう」という気はありません。私の論点は、そのようなことではなく、自分の立場や教会を明らかにしているにも関わらず「一個人」として不特定多数の人々に閲覧される掲示板やHPなどで不用意に信仰的・教理的主張をするべきではないということです。皆さんに知っていただきたいことは特定の立場を主張したり批判する方々の多くは「一個人」であって必ずしも「群れの総意」であるとは限らないのです。例えばですが、教団で「聖書十全霊感説」を信じ、聖書は誤りなき神の言葉であると主張しているのに、その教団に所属している人がブログなどで「聖書は信じた時に神の言葉となる」と主張したら、ネットしか見ない人は、それが教団全体の立場であると勘違いしてしまいます。

(※聖書十全霊感説は「聖書の言葉は、すべて聖霊の導きによって聖書著者が記した神の言葉である」と信じる立場です。私も、私の所属教団もその立場です。よく十全霊感説を「神がタイプライターのようにして著者を用いて記した」とする「機械霊感説」と勘違いされ、ご批判を受けますが、十全霊感説は、そうではなく、あくまでも著者の個性が用いられ、著者の意思のもと記され、そこにすべて聖霊の導きがあると考えます。そして、その神の言葉は、信じていても、信じていなくとも、いつでも神の言葉であると考えます。信じていなければ神の言葉とならないのであれば、信じなければ「真理」とならないわけですから、罪の基準や神のさばきは、信じていない人には関係のない話になってしまいます。)

「それでは、個人の主義主張が許されないのか!」と思うところでしょうが、このようなことは、不特定多数の人々が閲覧できるネットであるから注意が必要なわけです。その人が個人の意見として主張していることが、見る人によっては「群れ全体の総意」と取られてしまい、つまづきを与えてしまう恐れがあるのです。私も自らのブログで意見を述べることは多々ありますし、上記でも意見を述べていますが、あくまでも「教会」として「教団」としての信仰的・教理的立場の原則を超えないようにしています。もし、どうしてもその範疇を超えたいのであれば「私個人の意見」と明記したり、所属している教会や教派が特定されないようにするべきです。

 もし、ネットでいろいろな情報を得て、キリスト教不審に陥っている方々がいらっしゃいましたら、その意見が本当に、その教会や教団の総意なのかを、他のHPを見たり、実際に教会に行ってみたりして確かめてみていただきたいのです。また同時に、一人の意見によって、群れ全体の総意として受け止められ、つまづきを与えないように、情報を提供する私たちの側も気をつけなければと思わされます。
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適切ってどのぐらい?

 新潟市には「新潟西バイパス」「新潟バイパス」「新新バイパス」という県下有数のバイパスがあります。この3つのバイパスは実質的には1つの路線としてつながっていて、中央分離帯があり、片側2~3車線の新潟市の西側から新発田市までを結んでいます。信号も交差点もない無料の国道なので生活するうえでは非常に重要なバイパスです。

 このバイパスは数キロ毎にICが設けられているのですが、新潟西バイパスは自動車専用道になっていることもあり、最初の数区間は最高速度が80キロに設定されています。自動車専用道なので、当然、歩行者や自転車は通行できませんし、二輪車も125cc以下は通行できません。以前、私がバイクを購入する際、250ccにしたのは、その為です。この区間は私が住んでいるところから一番近いICの場所でもあるので…しかし、全長37キロにも及ぶバイパスですが、最初の数区間を除き、最高速度は60キロとなっています。特別急カーブが多いわけでもなく、対面通行の区間があるわけでもないのに何故最高速度が80キロではないかというと、新潟バイパスと新新バイパスは自動車専用道ではないからです。そんな中、狙ったようにした覆面パトカーの取り締まりもたまに見かけます。実は、知らない人も中にはいるかもしれませんが、一定の区間を除いては原チャリや自転車、歩行者の走行が可能ということなんですね。

 私は以前から思っている事があるわけですよ。「一般道とはいっても、歩道があるのは橋の部分だけで、実質自転車や歩行者が侵入するには無理があるし、実際に、そんな人は殆ど見かけたことないし…だったら新潟西バイパスと同じように自動車専用道にして制限速度を80キロにすればいいじゃないか!」…ということです。橋の部分は歩道の部分にちょっと高めのフェンスとかつければ解決すると思うんですよね。

 そう思っていたら、最近の計画で、このバイパスの制限速度を見直すかもしれないという計画があることを知り、ちょっと期待しています。現状の60キロ制限から、70~80キロ制限にしようというわけです。道路の設計上は問題ないそうです。その代わり、住宅地や市街地などの制限速度も見直し、場所によっては少し制限速度を下げようというわけなんです。つまり、行政の計画は「適切な制限速度にしよう!」というわけなんですね。あの区間の制限速度が80キロになると、だいぶ便利になると思うので、期待しています。

 しかし、中には心配の声もありまして①「ただでさえ、速度オーバーの車が多いのに、もっとスピードがあがってしまうのではないか(100キロとか)」であるとか②「現状でもびゅんびゅん飛ばしていて怖いから、これ以上制限速度を上げないでほしい」といった声もあるようです。しかし、それは、あくまで私が思うにですが、一部の意見ではないかと思います。ちょっと突っ込みを入れさせていただくと…

 ①は、気持はわからなくもないですが、行政が最初から速度超過を見込んで制限速度を設定するのはおかしいです。80キロ制限なら80キロでちゃんと走ってほしいという前提で設定されているわけなんです。建前であっても…「80キロ制限にしたら100キロで走る車が続出する」なんて意見を行政が受け入れてしまったら、現在の60キロ制限を80キロで走ってもそれは違反ではないんですね!…と言いたくなってしまいます。

 ②は論外の意見です。上記に記したように、このバイパスで歩行者や自転車を見かけることは殆どありません。ということは、同じように自動車で走行している人の意見なわけです。その人のいう「びゅんびゅん」とは一体何キロなんでしょうか?確かに50キロぐらいで走っている人には、80キロで走っている車を「びゅんびゅん」と感じるかもしれません。しかし、それが制限速度となるなら何ら問題はありません。それは、ドライバー一人ひとりが自らの技量と相談し、バイパスに乗り入れるかどうかを判断するべきです。(ちなみ時間はかかりますが、バイパスを使わないとたどり着けない場所なんてありません)だって、歩行者や自転車がいるわけでもないのに「ゆっくり走りたい車もいるのに制限速度を80キロにしたら怖い!」なんて意見いちいち聞いていたら、高速道路はどうなるの?…と言いたくなってしまいます。

 後半は愚痴っぽくなってしまいましたが、「適切な制限速度」が今回のポイントです。

 教会においても「制限速度」の設定が誤っていることが無いとは言えないでしょう。本来であれば、もう少し厳しくするべき部分が、時代の流れの中で緩くなってしまったり、さほど気にする問題ではないことが、厳しく追及されたりすることもあります。例えですが、ある教会の聞いた話ですが、青年男性の長髪を注意している一方で、性的罪がスルーされていたりします。「長髪が罪なのか?姦淫は罪ではないのか?」と突っ込みたくなります。これは、あくまでも一つの例で、教会にいろいろな人間的価値基準がはいりこんでしまい、片側3車線のだだっ広い道路の制限速度を30キロにされ、住宅地の狭い道を80キロ制限にされているような状態です。

 教会において「適切な制限速度」とはなんでしょうか?それは神の言葉である聖書以外にはありません。聖書のみことばは、私たちの信仰生活の唯一絶対の規範でなければなりません。そうでないと、それぞれが「この道は40キロじゃないか!」「いや!80キロぐらい大丈夫だ!」となり、争いが生じますし、何よりも、いずれ罪を招いてしまうことにもなります。「適切な制限速度は聖書のみ!」…これを忘れないように、いつも励みたいです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

与えられたものをもって

 私が中型自動二輪(現在の普通自動車二輪)免許を取得したのは17歳の時でした。当時、私が住んでいた長野県では一番早く取得できる年齢です。「あれ?」と思われた方もいるかもしれません。何故なら、中型自動二輪免許は法律では「16歳」から取得できるからです。実は、当時、長野県独自の意味のわからない(!?)条例があったからです。

 それは、中型二輪は「18歳」になるか、あるいは小型自動二輪の免許を取得してから1年が経過するか、どちらかの条件を満たさなければ取得できなかったのです。「国の法律が許しているのにそれはないだろ!」…と、当時は理不尽に思ったことであります。つまり、私の場合は16歳で小型二輪を取得して、1年後に、つまり17歳の時に中型二輪を取得したということです。それでも、直接、中型二輪を取得するよりは1年早く取得できるので、当時は嬉しかったものです。同時に県外の高校1年生が中型二輪のバイクを乗っているのがうらやましかったです。


dt125私が高校生の時に初めて所有したバイクである「DT125」です。色と型は少し違いますが、大体こんな感じのバイクです。スポーツ系ではないので、よく勘違いした原付のスポーツバイクに追い越しを(頑張って…)挑まれましたが、オフロードタイプとはいっても2スト125ccなのでお話になりません(原付=7.2馬力/最大トルク0.65kg-m、DT125=22馬力/最大トルク1.9kg-m!馬力ではなくトルクの違いが大きいほど加速力に差が出ます)

 そもそもバイクを乗っていない方々にとっては、中型だの小型だの言われても何のことやら?となってしまうので少し、二輪免許の種類を説明したいと思います。まず、私が二輪免許を取った当時の免許の種類は、実は「自動二輪」の一種類しかありませんでした。ちなみに原付は、50cc以下の「原動機付自転車」の免許なので、自動二輪の免許ではありません。小型や中型は何を意味するかというと、運転できるエンジンの排気量の「条件付き」であることを意味します。整理すると下記のようになります。

 原動機付自転車(いわゆる原付)=50cc以下(二人乗り不可、最高速度30km・・・キツイ!)
 自動二輪(小型限定)=125cc以下(二人乗り可)
 自動二輪(中型限定)=400cc以下(125ccを超えると自動車専用道路を走行できます)
 自動二輪(限定なし)=全部OK!
 ※取得可能年齢はすべて16歳以上

 当時、自動車学校で取得できたのは「中型限定」までです。つまり限定をなくす、いわゆる「限定解除」は免許センターで技能試験に合格するしかありません。みなさんもご存じの通り、免許センターの技能試験は難関です。特に限定解除は、当時、合格率が10%にも満たなかったと言われています。だから「限定解除」は、私のような中型限定までの人々にとっては、あこがれであったわけです。(だいぶ昔は限定はなかったらしい・・・うらやましい!)

 現在は免許制度がだいぶ変わっていまして以下のように分類されます。

 原付=上記と一緒
 普通自動二輪(小型限定)=125cc以下(以前の自動二輪小型限定)
 普通自動二輪(限定なし)=400cc以下(以前の自動二輪中型限定)
 大型自動二輪=すべてOK!(以前の自動二輪限定なし)
 ※取得可能年齢は大型のみ18歳以上
 ※原付以外はAT限定有(大型は650cc以下)

 このように免許制度が変わったと同時に大型二輪の教習が自動車学校で可能になりました。嬉しい限りです!その代わり、大型二輪の免許が取りやすくなった代償として、人気が大型バイクに集中して250ccや400cc等の中型バイクのラインナップが激減してしまいました。(若者のバイク離れもあると思いますが)そうなると中型は絶版車狙い(現在もラインナップはあることはあるのですが、選択肢が非常に限られます)となります。私が乗っているバイクも1989年式ですからね。逆に以前は殆ど原付のみで、自動二輪にはあまりなかったスクーターのラインナップが、現在は充実していて「通勤等で、気軽に乗りたいけど、原付だと馬力がないし、30kmしか出せないし…」という方々には、運転も楽で、さらにある程度パワーもある125ccや250ccのスクーターが人気です。東京にいた時は本当に良く見かけました。
 
 何故、このように免許制度が変わったかというと、一つの要因として事故や違反が多かったからです。「え?そんなの免許制度を変えても意味ないンじゃないの?」と思うところですが、以前と現在の免許制度を比べてみて下さい。以前は自動二輪に条件が付いていただけであったのですが、現在は免許そのものが分かれています。つまり、以前は、例えば小型限定で750ccのバイクを乗っても「条件違反」(眼鏡等というやつと同じです)で済んだものが、現在は免許そのものが分かれているので「無免許運転」となります。だから、現在はしっかりと免許を取らないと大型バイクは運転できないということと、大型バイクは18歳にならないと取得できなくなったので、それが事故や違反減少につながるというわけなんです。分をわきまえなさい!…ということなんですね。

 あっ!本筋に入る前に長文になってしまいました。最後に一言・・・

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ人への手紙12:3)

 まぁ、たまにはこんな感じで終わるのもいいかもしれません。

相手のちりと自分の梁

 昔、高速道路で速度違反で捕まったことがあります。オービスではなく、追尾による取り締まりでした。昔は若気の至りで、結構かっ飛ばしていました(今はそんなことはしませんよ!)。ぬおわキロ~ぬやわキロぐらいだったと思います。夜であったのですが、バックミラーを見ると、ぬやわキロぐらい出しているにも関わらず、全然距離が離れないヘッドライトが見えて「まずい!」と思って慌ててブレーキを踏んだ直後に後ろで赤いランプが点灯しました。2点減点で済みましたが、気づかなかったら免許が危うかったです。

 えー、速度違反する方がまず悪いという前提でお話ししますが、上記のシチュエーション、何かおかしくありませんか?何故なら緊急車両は、赤色灯をつけていないと最高速度は一般車両扱いだからです(ちなみに、サイレンについては違反車両の追尾中などは、必ずしも鳴らさなくてもよいそうです)。しかし私が、ぬやわキロぐらい出しているにも関わらず、車間距離が離れないということは、後ろのパトカーも同じぐらい速度を出しているということです。その時点で、パトカーも速度違反です。パトカーが赤色灯を点けたのは、私が怪しいと思ってブレーキを踏んだ後です。きっと急に私の車の速度が下がったので、制限速度以下になる前に慌てて追尾速度を記録して赤色灯をつけたのでしょう。

 このようなケースは非常に多いのではないかと思います。もちろん、速度違反を免れるための言い訳にしてはいけませんが、法律を取り締まる側が、まったく同じ違反をしていれば説得力ゼロです。まぁ、はっきり言ってしまえば違法取り締まりですね。でも、何よりも、常識的な速度で走っていれば捕まらないわけで、私も、以前のような速度を出して走行するようなことはありません。

 教会において、誰かの過ちを正さなければならないということがあったとします。私たちがそこで間違えやすいのは、過ちを正すために、自らも過ちを犯してしまうということです。その人に傷つけられたからと言って事実無根の情報を周囲に流したり、「そのような怒りはよくありません!」と言っている本人がすでに怒りがこもった口調であったりします。私たちには感情がありますから、いつも冷静に正しく歩むことなどできないかもしれません。しかし私たちは、隣人の罪がどうであるかということよりも、自分自身の罪がどうであるかということに目を向けなければなりません。見えない目で相手の顔のほこりを取ろうとしたら、逆に相手の顔を傷つけてしまうかもしれないのです。

 教会は赦された罪人の集まりですが、だからといって互いに無干渉だと、秩序がなくなり、教会は混乱します。故に相手を正すことも大切なことです。しかし、その前にしなければならないことは、相手を適切に正すために、自らの内に邪魔となっているものはないかを考える必要があるのです。互いにそのような信仰姿勢で励ましあっていくことによって、互いが成長し、そして教会も成長するのではないでしょうか。

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイの福音書7:3~5)

時代のスピードと宣教姿勢

 4月に入りました。私も新潟に来てようやく2年目を無事に(!?)迎えました。先週は寒い日が続きましたが、今日はだいぶ暖かく、曇ってはいますが、それでも春を感じる陽気です。春になると、そろそろ我が家のフィットもスタッドレスタイヤからノーマルタイヤに履き替えなければなりません。天気の良い日を見計らって交換しようと思っています。そういえば、最近の車のタイヤサイズって昔のスポーツカー並みのサイズが採用されてますよね。まぁ、最近の自動車は大衆車であっても動力性能が昔のスポーツカー並みなので、自然と言えば自然なんですけどね。

 ちなみにウチのフィットのノーマルタイヤのサイズは「185/55R15」なのですが、この表記が「何のこと?」と思っている方もいると思うので、説明をしたいと思います。まず、最初の「185」の部分はタイヤの断面幅です。ようはタイヤの太さです。「185」の場合は「18.5センチ」ということです。つまり、この数値が大きいほど太っいタイヤだというわけです。タイヤが太いと地面との設置面積が増えるので、グリップ力が増します。でも、どの車でも太いからいいというわけではなく、パワーに見合った太さでないと摩擦係数が上がりすぎて、パワーダウンにつながります。私が昔乗っていたスープラのリヤタイヤは標準が「225」なのですが、それだと動力に摩擦係数が負けてホイルスピンしてしまうので「255」にしていました。ちなみにフェラーリなんかは「305」とかあります!

 次の「55」という部分は扁平率です。ようはタイヤの厚さですね。タイヤの太さに対して厚さが何%かという表記です。フィットの場合は19.5センチの55%の厚さということなので約10.7センチということになります。この数値が低いほどタイヤが薄くなり、それだけカーブなどで左右の変形が減少するのでスポーツ走行に適します。そして何よりもホイールに対してタイヤの占める割合が減るので、見た目にカッコイイのです!タイヤ薄いと乗り心地は悪くなりますけどね…

 その次の「R」というのは、ラジアルタイヤであるということなのですが、最近の乗用車はほぼ100%に近いぐらいラジアルタイヤを使用しているので、あまり気にする必要はないかもしれません。最後の「15」は、ホイールのサイズです。単位は「インチ」です。私がスープラに乗っていた頃は17インチにインチアップしてそれなりの満足感に浸っていたのですが、今はそんなサイズは珍しくありません。何せGT-Rなんて純正で20インチですから!ちなみに15インチとはいっても昔はスポーツカーレベルだったんですけどね。

 そんなわけで技術の進歩はすごいなぁと思わされるのであります。昔、1960年代にトヨタから200GTというスポーツカーが発売されましたが、当時の価格が200万円以上、現在に換算すると1000万円以上という代物だったんですが、その2000GTのタイヤが確か15インチだったと思います。あのフェアレディZも初期の頃は14インチでしたからね。そんなわけで、昔は画期的、先進的であったものが今では当たり前となっているのです。

 教会の宣教の歴史を振り返ってみましょう。キリスト教の歴史はおおよそ2000年ですが、世界各地でまだまだ福音がのべ伝えられてない所が多くあります。 マタイの福音書24:14に「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」というみことばがあります。主の再臨を楽観的にとらえると、このみことばは「まだまだ福音が宣べ伝えられていないところがたくさんあるから大丈夫!」となってしまいます。はたしてそれでいいのでしょうか?

 世界宣教が開始されたパウロの時代は、徒歩がメインであったと思います。あったとしてもせいぜい馬車や船ぐらいでしょうか。それを考えると世界各地に福音が広がっていくのに果てしない年月がかかることは想像できます。しかし、時代を追うごとに道路が整備され、自動車ができて、さらに飛行機が開発されて、情報伝達のスピードは飛躍的に伸びています。昔は「飛行機なんて一部の特別な人でないと…」と言っていたと思いますが、今では当たり前のように誰でも世界各地へ行くことができます。インターネットを使えば、ほぼリアルタイムで情報のやり取りができるわけです。昔は大変だったものが今では当たり前の技術なのです。(その国の宣教を許されているかどうかは別の問題ですが)

 例えば「100」という数値を目標に「1」からスタートしたとします。1日毎に2倍ずつになっていくと、半分の「50」に達するには「1×2=2、2×2=4、4×2=8、8×2=16、16×2=32、32×2=64」となり6日間を要します。しかし、次の日には「128」となり、目標の「100」に到達します。「まだ半分だし…」と油断しているとアッという間にその時が来ます。この地球上の資源も長い年月で作られてきたもの、たった数十年で消費していたりします。「ここまで時間がかかったんだからまだまだその時は遠いよ!」と時代の流れる速度を侮り油断しているといつの間には世の終わりがくるかもしれません。もちろん、その時がいつかは父なる神様しかご存じではありませんが、私たちは、緊迫感をもった宣教姿勢が求められるのではないでしょうか。

「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイの福音書24:42)

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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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