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責任と現実

 前回、某自動車メーカーのリコールの話題をしましたが、同メーカーのブレーキの不具合の原因が何であるかがアメリカで話題になっています。「車が急に加速した!」とか「アクセルペダルが引っかかって…」など、大事故も起きていますから、メーカー側としても何もなかったように素通りとはいかないと思いますが、私個人としては、もう少し静観していたいと思います。だって、各国(日本も)の報道では「経済ジャーナリスト」だとか「危機管理の専門家」だとか「評論家」だとか、さまざまな方々のコメントが多く取り上げられていますが、肝心の「自動車工学の専門家」のコメントが殆ど取り上げられません(無いとは言いませんが…)。何故だか理由は分かりませんが(笑)、これでは判断のしようがありませんので、私としてはもう少し見守りたいわけです。

 アクセルペダルと言えば、私も不具合を経験したことがあります。もう十年以上前になりますが、MR2という車に乗っていた頃ですが、アクセルペダルが戻らなくなってしまったことがあります。ちなみにこの故障は車の欠陥ではなく、ただ単に劣化によるものです。まぁ、それなりに酷使してましたからね。アクセルの構造は、アクセルペダルとスロットルをワイヤーで繋いで、アクセルを踏んだ分だけ、スロットルが開き、大きく開くほど加速するというわけです。最近の車はスロットルを電子制御で行っている車も増えましたが、まだまだワイヤーの車の方が多いです。MR2は、エンジンが運転席の後ろにあるので、アクセルペダルとスロットルの距離が遠くなり、ワイヤーが長くなり、その分だけリスクがあるわけです。間違いのないように言っていますが、私は車を「酷使」していたのであって、普通に乗っていれば、めったにそんなことは起きません。

 そんでもって、間の悪いことにアクセルペダルが調子悪くなったのは、ヘアピンカーブが続く山道だったんですね。長野県の、じ○う峠というところです。何故そこにいたかって?突っ込まないでください。普通にアクセルを踏んだらカーブ手前でアクセルが戻らなくなったわけです。私のMR2はターボだったのでさらに大変で、カーブに入ってから「ドッカン!」という加速が始まるわけで、それは恐怖でしたよ!MT車だったので、クラッチを切って事なき終えました。どうしたかというと、アクセルペダルとスロットルを繋いでいるワイヤーを外し、車にたまたま積んであった電気配線のコードをスロットルに結びつけ、それを運転席まで引っ張ってきて、手で引っ張ってアクセル操作をして帰りました(笑)。片方の手が塞がってしまうので、MTの変速レバーの操作は助手席にいた友人に「セカンド!」「次、サード!」と掛け合いをしながら操作してもらいました。とっても危険なので真似をしてはいけません!!

 車の欠陥は修正されるべきです。しかし故障ゼロの車は、この世に存在しません。日本には車検制度があります。それは交通の安全を守るためのものです。実は車検を行い、車の状態を維持する責任は車の所有者にあります。車屋さんが車検や整備を行うのは、本人ができないので「代行」しているに過ぎません。つまり日常点検を怠り、事故を招くのはドライバー本人の責任です(上記の私のように…)。

 もちろん車の欠陥や整備を行った事が原因で起こった事故はメーカーや整備業者側に責任がありますが、安全を確保する義務は基本的に責任はドライバーにあります。例えば、車検に出したばかりの車が、ブレーキが利かなくなって事故を起こしたとします。責任の所在は整備実施業者が責任を負うことが殆どという現状ですが、法律では「運行前点検」というものがドライバーの責任で定められています。その中には「ブレーキフルードの残量の確認」や「ブレーキぺダルの踏みしろの確認」なども含まれています。もし走行する前からしっかりと点検をして(私もですが、殆どの人は行っていないでしょう…)「あれ?ブレーキフルードが少ない!どこか漏れてるのかな?」という確認ができれば、少なくとも事故は防げるわけです。だって「自分には責任がないから、別に事故ってもいい!」なんて人はいないでしょ!まぁ、運行前点検が法律によってドライバーの責任であると定められていると知っている人は少ないでしょう。それは自動車学校の教習のあり方にも原因があると思います。

 つまり、私が言いたいことは、責任の所在がどこにあるのかという事と、実際に危険が迫った時に対処するのは誰であるのかという事は、まったくの別問題だということです。車の設計に欠陥が無い方がいいし、車検や修理もきちんとされなければなりません。しかし、先にも述べたように、全く故障しない車なんてこの世に存在しません。まずは自分の身を守る事、そして走行中に周りで走っている他のドライバーの身を守ることが先決です。それはドライバーの義務です。私も気をつけなければと思わされます。「ブレーキが効かなくなった!」と言っても、たとえ整備不良であったとしても、その場で実際に対処するのは「ドライバー本人」です。いくら文句をい言ったところで、走行中の車に整備士がやってきて「申し訳ありません!今から直します!」なんてことは不可能です。

 教会は完全ではありません。故に、時に過ちを正さなければならない時もあります。それは、どの教会でも言えることです。そのような中で「この責任は自分にはないから関わらないでおこう…」とか「間違っているけど、今自分が言うと少数派だから…」などと思うこともあるでしょう。そのすべてが悪いとは言えません。また、責任の所在をうやむやにするべきでもありません。しかし、自らがその過ちの責任ではなかったとしても、もし、その過ち故に傷つき、つまづいてしまう人がいるなら、それは悲しいことです。気をつけていないと自らが他人の過ちで信仰を失ってしまうことだってあります。

 誰が原因であって、どのような対処や責任をとるかということは、教会の平和を守るうえで大切なことです。しかし、同時に心がけなければいけないことは、その問題の最中でつまずいてしまう人が起きないようにすることです。国の法律も必要に応じて問題が生じたときに改正されますが「まだ改正されていないから…」と言って野放し状態にすると、多くの人が犠牲になります。たとえ自らの責任ではなかったとしても、理不尽に感じたとしても、現実の今現在起きている問題に対して、隣人が、そして自らが押しつぶされないように立っていくことが大切なのではないでしょうか。

  
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いざという時のために

 最近、某自動車メーカーの人気車種のブレーキ問題が大きな話題となっています。ゆるくブレーキを踏んだ時に、効きが悪くなるということだそうです。強めにブレーキを踏みこんだ時は何の問題もなく止まるそうですが、やはりそれだけのことではおさまらなくなり、リコールとなりました。この問題は、さまざまな原因がからんでいて、誰が悪いとかそういうことは、私の個人としての見解はありますが、このような場所で言うことは控えたいと思います。

 自動車の欠陥がどうのこうのとは関係なく、今回の一連の報道を見て思わされたことは、多くの人はブレーキを強く踏むことに慣れていないということです。何故ならば、最近の自動車は緊急事態でない限りは、軽くブレーキを踏みこむだけで十分止まる制動力が備えられているからです。ブレーキは油圧を利用して人の力でも、あの重い車が止まるようになっています。いわゆるパスカルの原理が応用されています。さらに近年の車は「倍力装置」といって、負圧を利用して足で踏んだ力を何倍にもしてブレーキに伝えています。だから1トン以上もある車がわずかな足の力で止まるわけです。

(※蛇足ですが、倍力装置はエンジンがかかっていないと作動しません。よく市町村で「エコのため」と言って、信号待ちのアイドリングストップを呼び掛けたり、キャンペーンを行ったりしていますが、ハイブリッドカーやアイドリングストップ機能の付いた車は、それが前提で設計されているので別ですが、普通の車が信号待ちなどでエンジンを止めるのは大きな誤りです。ドライバーの気づきにくい緩やかな坂道でのエンジンストップは危険極まりない行為です。そのような行為は決して「エコ」ではありません。気をつけましょう!)

 しかし、その制動力があだとなって、ブレーキを強く踏むということを感覚的に覚えられず、いざという時も、とっさに強く踏みこめなくなってしまう可能性があるわけです。自動車学校で一応、急制動の教習は行いますが、あの狭い敷地内で数回行うだけなので、免許を取って運転に慣れるうちに、感覚なんてものは忘れてしまいます。ちなみに昔の車は倍力装置が付いていなかったので、ブレーキを強く踏まないと車は止まりませんでした。なので、この危険性は最近になってきてのことです。もちろん、軽くブレーキを踏んだ時もちゃんとした制動力が得られるのが本来なのですが、だからといって車のせいにして「ブレーキを強く踏まなければならないなんておかしい!」と言ったところで、いざという時に事故を起こし、危険な思いをするのは運転者本人です。


 特に最近の車種はABSが付いているのが当たり前です。そしてABS作動時のブレーキの感覚は割と独特なものです。普通の運転でABSが作動するようなことは殆どないので、ABSが作動した時の挙動に驚いて、ブレーキを緩めてしまう人は意外に多いのです。故に余計に「いざという時」の対処に遅れが生じます。今回の話題の車種でなかったとしても「ブレーキを強く踏む」という感覚を身に付けるということは大切なことではないかと思います。特に雪道はABSが簡単に作動するので、事前にどんなものか知っておくべきです。普段、緩いブレーキで済むことが殆どだと思いますが、いざという時に「強く」ブレーキを踏む必要があるわけですから…

 さて、教会の話題をしましょう。教会は問題や争いが起きない方がいいに決まってますし、普通はそのような特別な自体が起きている方が少ないと思います。そうでないとしたらちょっと問題アリです(笑)。なので、普段はごく普通の信仰生活がおくれるかもしれません。しかし、誰であれ、信仰が試される時が来ます。そのような時、「いざという時なんて自分には訪れるはずがない!」なんて思っていると、本当に「いざという時」が来たときに、その問題を乗り越えることができなくなってしまうかもしれません。

 その究極ともいえる問題が「信教の自由」の問題であるかもしれません。万が一信仰を守ることが困難な時代がやって来た時、何が正しいかわかっていてはいても、誰しもその信仰を守り抜くことが容易ではないことは理解できます。しかし「礼拝を自由に守れなくなる日なんて来るわけがない!」と「緩いブレーキ」ばかりを想定していると、いざという時に「強いブレーキ」を踏むことはできないのではないでしょうか。それを考えていく時、神様が少しずつ私たちにに必要な試練を与えられ、そのことを通して、普段は「緩やか…」であったとしても、いざという時に「力強く…」ができるように成長させられるものでありたいと願います。


「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(Ⅰペテロ1:7)

その人にとってみれば…

 先週は新潟市にとっては記録的な積雪となりました。多くの家庭や会社では除雪作業に追われ、日常通りのスケジュールとはいかなかったと思います。私も牧師館から教会にたどり着くまでも一苦労…といった感じでした。そんなわけで大雪の影響を考慮し、先週は午前中の祈祷会を休会といたしました。数メートル積もるのが当たり前である豪雪地帯の方々からすれば大したことがないのだと思いますが、普段、そんなに積らない新潟市の方々にとってみれば、今回の積雪はまさに「豪雪」となったことでしょう。これは、その人がどう感じるかの違いです。

 教会においての感じ方も様々です。ある人にとってみれば大変な苦労であることが、別の人にとってみればさほど大変ではないことがあったりします。しかしそのような時に、自らの話を持ち出し「そんなこと大したことないですよ!」「自分はあの人よりもっと大変な思いをしているのだ!」と言ってしまうことはあまり良いことではありません。それを言い出せば、世界中を見渡せば、その苦労していると思っている「自分」よりさらに苦しんでいる人がたくさんいることでしょう。このような比較ばかりしていると、いつまでたっても互いに支えあうことなどできなくなってしまいます。

 現実を冷静に受け止めることは大切です。しかし、本人が苦しいと思っていることは、他の人がそう思わなくとも苦しいのです。現実を冷静に見て、みことばの土台から外れないように導くと同時に、今現在苦しんでいるという「思い」も受け止めることが大切なのではないでしょうか。

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」 ローマ人への手紙12:15
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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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