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互いに歩み寄る

 以前お話ししたように、私のバイクは現在、純正マフラーに交換して、買った当時よりは、だいぶ音が静かになっています。それでもバイクは四輪車よりは音が大きくなってしまいますので、最近は、自宅付近ではエンジンの回転数をあまり上げないとか、さらに気を遣っていこうと思うこの頃です。「教会」=「暴走族」なんて思われたくないですからね。しかし回転数をあまり上げないとはいっても、古いバイクを乗られる方はわかるかと思いますが、四輪車のように、アイドリング+αなんかで走行するなんてことは無理があるので、ある程度はどうしても回転数が上がってしまいます。つまり、音が抑えられる精一杯のことをするしかないわけです。

 よく、ライダーが近隣住民の苦情で幹線道路までバイクを押していってからエンジンをかけるなんてこともあるらしいですが、私から言わせれば、あまりにも愛がなさすぎです。だって苦情を言われて、素直にわざわざバイクを遠くまで押していくような人は、無駄な空ぶかしとかするとかは到底思えません。違法改造している場合とか、早朝や深夜とかは別ですけどね。これは何も自動車ばかりではなく、生活しているうえでのさまざまな音でも、よく問題になることです。何故かというと、それぞれの感じ方が違うからです。たとえば、部屋から漏れるピアノの音が、ある人にとっては心地いいものであっても、ある人にとっては騒音になってしまいます。でも、その騒音と感じている人が別の音で他の人に騒音を与えているかもしれないわけです。

 こんなことは千差万別ですから、法律を犯していない場合は、お互いが最善の努力をし、そして互いが受け入れあっていけば、それでいいのではないかと思うのです。たとえば、ある程度音の大きくなる事を行う場合は、極力日中に行うとか、その上で、互いが日中のことであれば目をつぶるとかすればいいと思います。そういう意味では、私たちの教会の主日礼拝は、近隣の方々に本当にご理解いただいていて感謝です。近隣の問題で、真夏でも窓を開けられないような教会もあるらしいですからね。あとは、本人が気付かない場合もあるので「すみませんが、窓を閉めてもらっていいですか?」とか「夜は控えてもらってよろしいですか?」とか「親切に」言ってあげることも大切です。ようは今日のポイントは「互いに」ということです。

 教会においての音の問題で、いちばんよく言われることが「礼拝中の小さな子どもの声」です。何故、問題に発展するかというと、「互いに」歩み寄らないからです。片方では、親が「子どもがうるさいのは当たり前なんだから、他の人が我慢するべきだ!」と言い、もう片方では「礼拝に、そんな大きな声をだされては困るから子どもを礼拝堂に入れないで欲しい!」となってしまうわけです。互いの主張は正しいのですが、主張する立場が正反対になってしまっているのです。子どもの親が「礼拝なのであまり大きな声を出さないように配慮しなければ」となり、他の方々が「小さな子どもが、声を出してしまうのは仕方がないことなんだ」となるのが本来です。我が家も小さな子どもがいるので気をつけなければと思っております。

 教会において正しい主張であるのに、問題になってしまう時、「互いに歩み寄る」ということをすることによって解決されることがあるのではないでしょうか。もちろん、みことばの土台にあって理不尽な主張の場合は毅然とした態度が必要であると思いますけどね。
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その少数のために

先日、私が元自動車整備士ということを知っている知り合いの牧師から「福祉車両は4WDの車種が限られてしまうのは何故なのでしょうか?」という質問を受けました。確かにそうなんです。何故かという理由は、ズバリ「コスト」です!福祉車両で、さらに4WDというと販売台数が見込めないので、その為の生産ラインを確保するというのは採算がとれないというわけなんです。まぁ、メーカーは利益が出ないと食っていけませんから仕方がないかもしれません。

 でも、事情は十分にわかりますが、私個人としては、もう少し頑張ってほしいなぁと思っています。今の現状は、なんか雪国の人たちが切り捨てられているような気がするんですね。その最たるものが「ハイブリッドカー」ではないかと思います。国やメーカーが「エコ」を推進しても、現状で雪国の人には選択肢がほとんどありません。エス○ィマとか○リアーとかは4WDのハイブリッドカーですが、価格がとんでもないことになってしまいますし、燃費も同クラスとしては良くとも、元々でかい車なので、普通のコンパクトカーにも及びません。

 スポーツカーもそうです。私が若い頃は本当に、この問題で悩みました。スポーツカーに乗りたくとも、雪国にとっては「楽しみ」を取るか、「実用性」を取るか悩みどころです。「そんなの実用性でしょ!」と言いたくなるかもしれませんが、スポーツカーなんて若いうちしか乗れませんから(普通は)結構、大きな問題なんです!だったら4WDのスポーツカーに乗ればいいのではと思うでしょうが、4WDスポーツなんて、G○-Rとか、ポ○シェとかになってしまうので、若者には手が出ません。メーカーの方が「雪国のヤツは贅沢言わずに、与えられた選択肢で我慢しなさい!」とは思ってはいないでしょうが、現実はそうなっています。まぁ、私は「楽しみ」だけの方をとって、冬は苦労しましたが…

 これは私見ですが、たとえばプ〇ウスなんてバカ売れしてるんだから、4WDを開発して、たとえ4WD部門だけ赤字になっても全体で利益がでればいいのではと、勝手なことを思ったりもしています。その点、ス〇ルさんはすごいです!確か全車種に4WDの設定があったと思います。ス〇ルによると「どんな道でも走りを楽しく!それが理想です!」だそうです。だから雪国である私の郷里長野では「4WDスポーツに乗りたいけど、G○-Rなんかとても手が出ない!」という若者がよく、ス〇ルのイン〇レッサを乗っていました(超速です!!)。だって、公道での性能は大差なくとも、価格は倍以上開きがありますからね。他のメーカーも「その少数派のために!」というスピリットが欲しいものです。

 教会の働きというものは、世の中の価値基準からすると「採算がとれていないではないか!」という働きが多数ありあます。チラシを何千枚も配布しても誰も来ないとか、大きな予算を組んでコンサートを行っても、予想より来場者が少ないとか、いろいろあります。しかし、教会の働きは利益のために行われているわけではありません。たとえチラシを1万枚配って、来た人が数人であったとしても、コンサートの入場者が予定より大幅に少なく、赤字になってしまったとしても、その来て下さった「数人」が教会にとっては何よりもの喜びであるのです。

 たとえば私が日頃思っていることは「空調」です。夏は「エコのために多少の暑さは我慢しましょう!」ではなく、ある程度「暑がり」の人に合わせてあげるべきです。逆に冬は「エコのために多少の寒さは我慢しましょう!」ではなく、ある程度「寒がり」の人に合わせてあげるべきです。それを「燃料代や電気代の無駄だ!」と言ってしまっては宣教の働らきは進みません。信徒だけの集まりであれば「多少の我慢」は通じるかもしれませんが、礼拝やその他の諸々のイベントはそうであってはならないわけです。もちろん「無駄」と「宣教のための投資」は別ですから、正しく判断していかなければなりませんが、要は私のポイントは、何でもかんでも「それは無駄だ!」とするのではなく「その少数の人々の宣教のために!」という思いが大切なのではないかということです。


「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(ルカの福音書15章4節)

みんなで分業

 自動車整備士という国家資格は一級~三級までありますが、自動車整備士として働くには、一般的に「二級」をもっていればOKです。私が持っているのも二級です。何故、二級でOKかというと、一つは一級の試験が一度も行われていなかったので、二級を取るしかないということです。現在は、一級の試験が行われていますが、私が資格を取る時は、まだ実施されていませんでした。もう一つは、一つ目の理由が関係しているのだと思いますが、ほとんどの自動車関係の責任者は二級で条件を満たすことができるということです。

 何故、以前まで一級の試験が実施されていなかったかというと、実施要綱が定まらなかったことが挙げられます。じゃあ、何故、実施要綱が定まらなかったかというと、一つの原因として一級に対しての要求が高すぎたことがあります。現在は見直されていますが、当時は二級ですでに一般的に必要な整備技術と知識のほとんどが要求されている中で、さらにその上というと、いったいどれぐらいの知識と技術が要求されるのだろう…ということなんです。

 自動車整備士というのは、実はあらゆる分野での知識と技術が要求されます。例えば家って大工さんだけでは建てられませんよね。設計する人、土地を測量する人、左官屋さん、水道屋さん、電気工事等、あらゆる分野でのプロフェッショナルの方々が携わります。

 自動車は走る家のようなものです。エンジンをいじるので、当然、機械工学を学ばなければなりません。自動車を走らせるためのエネルギーの計算や設計の為の、物理工学も求められます。自動車の材質の知識も必要です。自動車は燃料を爆発させて走るので、化学の知識もいります。そして、ライトやウインカー、ワイパー、メーターなどを動かしている電気関係の知識もないといけません。そして近年の自動車に欠かせないのは、コンピュータです。まだ多くのことがありますが、これらすべてにおいてプロフェッショナルを求められても、誰も合格する人などいません。…ということで、現在は見直され、一級の試験が実施されています。それでもまだ一般的ではありません。

 それでは、自動車整備はあらゆる分野でのプロレベルが要求されているにも関わらず、そのような人が存在しないとなると「いい加減な整備をされているのか?」と思うところですが、決してそんなことはありません。確かに、一人ですべての分野でのプロフェッショナルになんかなれません。私も、いろんな分野が、ある程度は分かっても、すべての分野が強いわけではありません。コンピュータなどはお手上げです。じゃあ、自動車は、どのように整備されているのかというと「分業」や「外注」です。企業が大きいと、さまざまな分野の工場を置くことができますが、そうでない場合は外注もします。一般的な整備は整備士が行いますが、電気系統で原因が分からないようならば、電装屋さんに依頼します。ガラスの修理などは、ちゃんとガラス専門の方々がいます。私は事故った車の中身は直せても、ボディは直せません。だから板金屋さんがいるわけです。コンピュータなどは、メーカーに依頼しますね。実は、新車を組み上げる時も、同じようにしてメーカーがいろんな分野の企業に依頼して1台の自動車が完成するわけです。

 昨日、宣教区の新年聖会が行われました。講師のC先生を通して熱くメッセージが語られました。C先生はネヘミヤ記を通して、エルサレム神殿城壁再建の際、あらゆる人々が携わったことを挙げ、中には、自分が生業としない作業や、人が嫌がるような場所もまかされた人もいたということを語られました。教会もそのようにして歩んでいくべきであることが語られました。

 本当にそうですよね。私は教会の中において牧師としての役割が与えられています。しかし、神様は教会形成のすべてのことにおいてプロフェッショナルになることは望んでいません。一人ひとりが神様から召されて、それを実際に行い、教会が建て上げられていくのです。もし自分にはない賜物だと思っていても、神様が召された役割であるならば、役割と共に、成していく力も与えられるはずです。それは牧師においても、信徒においても同じことが言えると思います。他力本願で他人にばかり押し付けてしまうような「オール外注」もいけませんし、すべて自分一人で行おうとする「自社生産」も不可能です。良い意味で「分業」がなされていき、教会が主のみこころの内に進んでいくことを祈り願います。

 

一部分だけで…

 新年明けましておめでとうございます。…といってももう6日ですが、実は、年末に我が家のパソコンがまともに動くまでに2時間以上を要する状態になりまして、OSの故障かと思いきや、電源ON直後から何やら異音がするのでPC本体に不具合があるようです。おかげで年末年始は、PCを使用する回数が減ってしまいました。しかし、とうとう買い換えました!もともと以前のPCが中古だったので、そろそろかな?とは思っておりましたので良い機会だったと思います。

 新しいPCですが、普段はディスクトップを使っていたので、本体の買い替えのみで済みました。まぁ、OSは今さらXPというのも何でしたので「7」にしましたけど、あとは空っぽのやつです。そういえば、最近のディスクトップはディスプレイとの一体型が主流になりましたけど、コンパクトになるのはいいのですが、ディスプレイや本体、内部の部品など、別々に変えられるのがディスクトップの良さの一つだったのですが、少し残念です。

 実は、自動車の修理も同じ傾向になってきています。以前は部品の修理や交換で済んだものが、その周辺の部品も含めた、いわゆる「ユニット」ごとの交換が多くなってきています。まぁ、今の部品は複雑なので、部品ごとに変えるといっても大変なのですが…交換するのは簡単になったのですが、その分、部品代も高くなってしまうわけです。パソコンも一緒ですが、ハイテク化が進んでいるので、下手に一部分だけ交換できても、以前よりも複雑で大変なので、仕方がないのかもしれません。

 でも教会はそうであってはいけません!(いつものように強引な展開です…)教会の一面だけのマイナス面を見て、教会そのものが悪いかのような受け取り方をしやすいのですが、決してそうではありません。異端のような土台そのものが違っている場合は別ですが、教会そのものは神様が建てられたキリストのからだなのです。もちろん悪い部分は改善が必要です。しかし、近年のPCや自動車のパーツのように、「一部分が悪いなら全部とっかえてしまえ!」という発想になってはならないのです。

 教会において「人につまづく」ということがあっても(そうなってはほしくありませんが)、「教会につまづく」ということはあってはなりません。それは教会を建てられた神様につまづくことになってしまうのです。それを考える時、「教会は捨てるけど、信仰は守ります!」という論法は、本来は成り立たないのです。(※ここでの話題は、教会籍の問題ではなく、あくまでも教会の存在そのものの話題です)私たちは弱さ故に失敗もします。しかし、それは教会そのものの存在とは別の問題なのです。一部分の問題だけで、教会そのものを否定することがないようにしたいものです。

 とはいっても、人の影響というものは大きいです。特に牧師という立場ならなおさらです。「教会の存在につまづく」ということがあってはならないですが、同時に、そのようなことが起こらないような牧会と教会形成を心がけたいです。
プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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