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みんながやっているからOK?

 2009年最後の日です。年末は高速道路が毎年渋滞します。それを防ぐためか、休日千円割引が年末に適用されませんでした。(なぜか、年始は適用!)まぁ、私個人は遠出しないので、影響はないのですが、遠出する人には大変だったかもしれません。しかしながら、こちらのような地方の高速道は、お盆だろうが、年末だろうが、目立った渋滞はしません。だいたい年末に渋滞するのは都心からの下り線です。下り線であっても、走行するにつれ、それぞれの地方へ車が分散していきますから、だんだんスムーズになっていきます。

 何故そのようになるかなんて当たり前のことですが、移動する人の数が地方と都心では絶対的に違うからですよね。私は東京に3年間住んでいましたが、最後まで、あの人の多さに慣れることはなかったです。私の郷里長野であんなに人が多いのは冬季オリンピックがあったときぐらいです。以前、長野で「土曜日」に久しぶりに駅前に行った時、「今日は元旦?」というぐらい人が少なく感じました。それぐらい地方と都心(特に東京)は人の多さが違います。

 そのような影響は自動車社会も影響を受けまして、例えばディーゼルエンジンの自動車は都心では規制がかかり、所有はおろか、場所によっては乗り入れも厳しい状況です。無論これは日本全国ではなく、都心が殆どです。つまり交通量の少ない地方は規制がありません。その為、登録を規制のかかっていない都市で行い、実際は都心で使用しているという、いわゆる「車庫飛ばし」も増えています(もちろん違法!)。一番単純な解決方法は、全ての分野において「一極集中型」を改善することであると思いますが、現実的には難しいでしょう。

 でも、別の見方をすれば、一人ひとりの問題だと思うのです。ディーゼルエンジンが、ガソリンエンジンと比べてどれだけ有害かとか、本当に有害なのかとかいうことを話すと非常に長くなりますので割愛しますが、つまりは都心で有害なものは、地方でも有害だということです。車の排ガスの総量は、当然のことながら地方よりも都心の方が多いです。しかし、1台あたりの排出量は、同じ車種であれば、どこで乗っていても一緒です。なので一部だけの規制をせざる得ないのは私も納得はしますが、本当に有害だと言うならば、地方だろうと都心だろうと規制をしなければならないのではないかと思うのです。個人が車を買い換えるのには相当な負担を強いられます。それを考えると仕方ないことではあるのだけれども、かわいそうだなぁと思わされます。ようは私が言いたいことは、有害なものは、どこに行ってもそれは変わらないということです。

 聖書には神様の規準においての罪がどのようなものであるかということが、ハッキリと示されています。しかし、残念なことに、その規準が「時代の変化」とか「地域の文化」とか「年代の差」であるとかいう理由でねじ曲げられえていることが少なくありません。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉がありますが、まさにその通りのことが起きているのです。

 しかし聖書が罪というならば、時代が変わろうとも、地域の文化が違えども、年代の価値観に差があっても、罪は罪なのです。「みんなが罪というから罪」なのではなく「聖書が罪といっているから罪」なのです。教会は、絶えず変化する周りの価値基準に惑わされることなく、みことばに堅く立って歩んでいくものでありたいと願います。

 もちろん、「ニーズ」というものは変化します。罪の規準を変えないという事と、ニーズを無視するということは決して同じではありません。変化していくニーズに応えつつ、みことばの規準は決して変えない姿勢が求められるわけです。 
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法律は何のため?

 教会においてのクリスマスの諸行事が終了しました。来週は新年を迎えます。毎年のことながら、慌しい暦であるなぁと思わされます。さて、話は変わりますが、1月は、我が家のフィットが車検を迎えます。痛い出費ではありますが、何せ法律で決められていることであるので仕方がありません。

 私が自動車整備士の仕事をしていた時、整備と共にフロント業務(お客さんの応対をしたり、作業内容のスケジュールを決めたりする役割です)も兼任していたのですが、実に色々なお客さんが訪れます。傑作なのは、国際結婚をした日本人の主婦の方がやってきて「主人の国は車検制度がなくて、この出費を理解できないから、決して主人には金額のことは言わないで下さい!」というお客さんがいました。いやー、大変でしたよ。だって、奥さんは運転しないから、車を実際に持ってきたり、引き取りに来たりするのはご主人の方なんですから。今思えば、それは会社側ではなく、夫婦間の問題なのでは・・・と思っています(笑)。

 このような車検制度、「別になくてもいいじゃないか!」と思う人もいることでしょう。まぁ、わからなくもないです、結構大きな出費ですからね。しかし痛い出費ではありますが、私個人としては、特にこの日本においては車検制度はなくすべきではないと思っています。日本車というのは非常に高性能です。私は世界一日本車が好きだというぐらい高性能です。道路事情が許せば、時速300キロで走る大衆車を作るなんてわけのないことです。ただ単に日本の法律と道路事情が許さないだけです(そんな大衆車を作ったら危ないですし・・・)。現にF1全盛期のホンダは勝ちまくっていましたしね。

 でも、日本車の一番の高性能を誇る部分は「故障が少ない」ということです。うちの車も3年間乗って、故障なんて一つもありません。「この車種は故障しやすいではないか!」ということがあっても、それでも、日本車は圧倒的に故障が少ないんです。しかし、そこに落とし穴がありまして、日本人は車があまりにも故障しないので、日頃のメンテナンスを怠ってしまう人が多いということです(もちろん、ちゃんと管理している人もいますが)。だから、車検制度がないと、故障する車が続出すると思うんですよね。それは事故にもつながる場合もありますから、大切な問題です。メーカーとしては、車の寿命が短くなるので嬉しいかもしれませんが(笑)。私も整備士をしている中で、オイル交換一つサボっただけで、車の寿命を大幅に縮めてしまったお客さんが何人もいました。

 だから「車検は任意にすれば良い」としてしまうと、大変なことになると思います。むしろ、車検制度のおかげで私たちの命が守られていると思っても言い過ぎではありません。だって、ブレーキホースの傷一つ見逃すだけで命に関わることだってありますからね。

 聖書には多くの律法があります。その中の代表が十戒です。これを窮屈と思う人もいるかもしれません。「クリスチャンになると彼女と関係をもつことができないから・・・」と言って、クリスチャンになるのをためらう人もいるぐらいです。もちろん、十戒を破ったからと言って、救いが取り去られるわけではありませんが、大事なことは神様が十戒を与えられたのは、人を縛るためではなく、人の歩みが幸せになるようにと与えられたということです。

 私たち人間は「十戒なんかなくたって、神様のみこころを行うことができるさ!」と言ったところで、罪故に神様の望む行いをすることができません。神様は、私たちが罪の道を歩むことがないようにと、十戒を与えられたのです。十戒ばかりではありません。聖書すべてが、私たちを縛るためではなく、自分自身では自主的に神様のみこころを行うことができないために、みこころが示されているのです。聖書は「神様の押し付け」ではなく「神様のプレゼント」であるのです。そのことを心に留めつつ、悔い改めの日々を送りたいと願います。

過信は禁物!

 ここ数日、雪が降ってます。教会も25cmぐらい積もりました。豪雪地帯と比べると決して大雪とは言えないのですが、新潟市でこの積雪量は久しぶりのことらしく、新潟市にとっては「大雪」であったことでしょう。そんな中、慌ててスタッドレスタイヤに交換している人もちらほら見かけ、来月に控えた車検の予約をしてきたお店も、タイヤ交換のお客さんでいっぱいでした。

 さて、最近の自動車は、ほとんどの車種がABSを装備していますが、乾いた路面でその機能を体感するのは、相当の急ブレーキを踏まないとABSは作動しないでしょう。もちろん、ABSが作動するような事態にならないことがベストなのですが・・・しかし、雪道では簡単にABSが作動します。それだけ雪道が危険と言うことなのですが、もっと危険なことはABSの機能を「制動距離が短くなる」と誤解している人が結構多いことです。乾いた路面や、ただ濡れているだけの路面であれば、それで正解かもしれませんが、雪道やアイスバーンは話が別です。

 ABSとは「アンチ・ロック・ブレーキ・システム」の略で、その名の通りタイヤがロックしてしまうのを防ぐ装置です。タイヤがロックすると制動力が落ちるので(それでも下手に優しくブレーキをかけるよりは止まりやすい)、装置がロックを感知すると、いったんブレーキを解除して、もう一回ブレーキをかけなおす・・・ということを繰り返し行ってくれる装置がABSです。しかし、実際は物理公式のようにはいかず、制動距離が明らかに短くなるのは乾いた路面であって、雪道では制動距離が逆に長くなります。雪道の場合、ABSの介入が早過ぎるんです。また雪道の場合は、きちんと速度を検知できずに誤作動する場合もあります。特に「あと1メートル!」という段階になってからABSが何度も効くのは恐怖です!(一昔前の車のABSは要注意です!)。はっきりいって「あと1メートル」というぐらいに速度が落ちた段階になったら、タイヤがロックしてしまった方が早く止まります。追突を避けるには、その「あと1メートル」が結構大事なんです。キックバック(ABS作動時にブレーキペダルが少し戻る現象)を無視して強くブレーキを踏めば、誤作動も防ぎ、わりときちんと止まるのですが、結構な力が必要であり、とっさにそんなことを出来る人は少ないでしょう。

 もっと恐怖なのは、スピンした時です。確かにABSはブレーキをかけたときのスピンは防げますが、カーブなどで走行中に発生するスピンは、ブレーキをかけた時ではないので、当然ABSは作動していません。そしてスピンしてから慌ててブレーキを踏むと、スピン状態がすでにタイヤロックと同じ状態なので、ABSはブレーキを解除し続けてしまいます。つまりブレーキが全く利いていないことに近い状態となります。これは恐怖です!私も「いつになったら止まるのだろう!」という恐怖体験をしたことがあります。これは雪道でなくとも、スピンすれば同じです。でも日本全国で「雪国」と呼ばれる地方の方が圧倒的に少ないわけですから、一部の車種を除いて、乾いた路面や雨の日などを想定してABSのセッティングがされているのは仕方がないかもしれません。

 そうなると「ABSって、何のために付いているの?」と疑問に思うことですが、そもそもABSは緊急時に「短く止まる」ための装置ではなく、緊急時に「回避する」ための装置です。メーカーも、そのように説明しているはずです。タイヤがロックして一番怖いのは、制動距離が伸びることではなく、ハンドルがまったく効かなくなることです。自動車学校で習うポンピングブレーキをいつでもできれば、ハンドルは効くのですが、緊急時にそんなことができる人はいません。「止まれないならば、せめてハンドルが効かなくなるのを防いで危険を回避しよう!」という意図です。従って「ABSが付いているから車間距離は短くても大丈夫!」だとか「ABSがついているからもっとブレーキを遅らせても大丈夫!」というのはただの都市伝説なので注意しましょう!雪道ではABSが付いていても、十分な車間距離や早目のブレーキが大切です。そしてブレーキを踏みながらでもハンドルが効いて回避できるというのは、雪道では劇的に効くわけではないので、ABSに頼りきる運転は避けるべきでしょう。最終的に一番威力を発揮する装置はドライバー自身の自制心ではないかと思います。

 教会の働きは時代を追うごとに多種多様化しています。どんどん便利な物や方法も出てきます。集会でプロジェクター等を使って視覚的興味を誘うとか、コンサートを開いて音楽好きの人に来てもらうとか、私のように一部の自動車マニアを想定して(笑)ブログを書くとか・・・これらは、どれも便利なものであり、それ以外でも、教会の宣教の働きに大いに用いられていくべきでしょう。逆に固定観念に捕らわれてしまい、人々のニーズを無視してしまうのは良いことではありません。もちろん、みことばに反しないという範囲での活動ということが前提ですが・・・

 しかし、これらはあくまでも「ツール」であって、これらを用いる一人ひとりの思いが一番大切であるのです。自動車技術が発達してどんなに便利になっても、ドライバー自身が安全運転を心がけなければ事故はなくなりません。同様に、教会の働きに用いていくものも、どんなに便利になっても、用いる本人がみことばから逸れたり、宣教の情熱を失ってしまっては、意味の無いものとなってしまいます。便利な物はどんどん用いつつ、しかし、自分自身の心がけが一番大切であることを忘れないようにしたいと思います。

 ちなみに4WD車が雪道で止まりやすいと思っている人も少なくありませんが、それも大きな間違いです。だってブレーキをかけているときは、アクセルを踏んでいないわけですから、条件は2WDと全く一緒です!


 

その群れに合った働き

 えー、またバイクの話題ですが、私が買ったバイクは最初から社外のレーシングマフラー(だいぶ爆音!)が付いております。しかし、この度、ノーマルマフラーに替える予定です(お店の人がサービスで用意してくださるとのこと)。バイク好きの人から言わせれば「せっかく付いている社外マフラーをわざわざ何故?」と思うかもしれませんが、マフラーの抜けが良すぎて、高回転仕様になってしまっているんですよね。

 どういうことかというと、排気ガスの通り道が大きすぎて低回転では調子が悪くなってしまうことがあるんです。その分。高回転域のパワーは出ますが・・・だいたい、8,000回転以上回すと調子いいです(ちなみに、このバイクのエンジンは、18,000回転まで回るというふざけたエンジンです)。

mc19  fit
 左が私の乗っているバイクのメーターです。2万回転まで刻まれており、1万8千回転まできっちり回ります。(この次のモデルのバイクは1万9千回転まで回ります!)ちなみに右側は我が家のフィットのタコメーターですが、8千回転までしか、刻まれておらず、実際は5千5百回転ぐらいまでしか回りません。


この症状を例えるならば、ストローと竹筒に水を流す場合を思い浮かべていただければよいのですが、当然のことながらストローよりも竹筒の方が太いので、多くの水を流すことが出来ます。しかし水の勢いをつけるためには、より多くの水が必要になるわけです。しかし、ストローは、水の量を増やしても、さほど多くの水を流せず詰まってしまいますが、少しの水で勢いをつけることができます。つまり私のバイクは「竹筒仕様」から「ストロー仕様」にして、あまりエンジンを回さなくとも乗りやすいバイクにしようと言うわけです。その分、高回転域は犠牲になりますけどね。

 教会形成において身の丈にあった歩みをするということは意外にに大切です。もちろんビジョンは高く掲げてよいのですが、その段階において、最善の働きがあると思うのです。その群れの許容を大きく超えた働きは、先ほどの「ストロー」と一緒で、こなせない奉仕などが出てきて「詰まり」ができてしまい、やがて疲れてしまうかもしれません。逆に「竹筒」のような許容がある群れにも関わらず、その許容を大きく下回る働きは、その結果怠惰を生み、衰退してしまう恐れがあるかもしれません。

 時に許容を少しだけ超えた働きをすることは、その群れの成長につながると思います。時に許容を少しだけ下回る働きをすることは、その群れの癒しと安息につながると思います。しかし、許容から大きく逸れる働きは、その群れのためにはならないのです。だからといって、みんながみんな、自分達の限界を知っているわけではありません。そのようなことを考える時、私は牧師として、その群れが最善の働きをなしていくことができるようにしていかなければならないと、責任の大きさを感じることであります。

 ちなみに自動車や最近のバイクは、ガソリンの量をインジェクションというコンピューター制御の部品を使用して制御しているので、低回転であろうが、高回転であろうが、調子が悪くなるようなことはありません。

一つの側面だけの判断では・・・

 新潟市に来て、最初の12月を迎えました。まだ雪は降っていないので実感はわきませんが、それでもだいぶ寒くなってきました。我が家の車もそろそろスタッドレスタイヤに替えなければなぁと思うこの頃です。うちのスタッッドレスは今年で3シーズン目ですが、そのうちの2シーズンは東京在住であったため、ほとんどすり減っていません。しかし、あと数シーズン後に買い換える必要があるでしょう。

 そもそも、スタッドレスタイヤが雪道に強いのは溝の形状や深さのおかげだけであるというのは大きな間違いです(理由の一つではありますが・・・)。メーカーによって、方針が違いますから一概には言えませんが、「溝があるから、まだ大丈夫!」というだけの判断はしないほうがいいです。

 スタッドレスタイヤの効果には、主に二つの効果があり、一つは「形状」による効果です。深い溝によってしっかりと雪を噛んで、溝によって踏み固められた雪の柱を蹴ることで、グリップを高めます。そして切り込み(タイヤブロックの中にある細かな溝)によって、氷上の解けた水を掻き、スリップを防ぎます。何故、雪や氷が滑るかというと、この解けた水が膜をはる事が原因です。したがって表面ですら雪や氷が解けない極寒地帯(ロシアとかシベリアとか・・・)の真冬はノーマルタイヤで、少し暖かい秋(日本の真冬ぐらいの気温ですが)にスタッドレスを使用するそうです。

 もう一つの効果は「材質」による効果です。タイヤに含まれている素材に雪や氷を掻く性質の素材が含まれており、その細かな素材の効果でグリップ力を高めます。そして次のことが「溝があるから、まだ大丈夫!」というだけの判断はしないほうがいいという大きな理由ですが、それは素材の軟らかさです。触ってみれば一目瞭然ですが、スタッドレスタイヤはノーマルタイヤに比べてだいぶ軟らかいです。この軟らかさによって、雪や氷との接地面積を広げてグリップ力を上げます。しかしゴムは年月と共に硬化します。だから溝が十分あっても、ある程度の年月が経っているスタッドレスは、ゴムが堅くなってしまい、本来の効果を期待できないので、買い換えた方がよいわけです。メーカーによって仕組みがある程度違いますが、ゴムの軟らかさに頼った種類のスタッドレスが堅くなると、ノーマルタイヤとさほど変わらないと思った方がよいでしょう。

 さて、教会の資質を判断する際、ある一面だけで判断することはないでしょうか?例えば「祈りましょう!・・・とばかり言っているけど、ちっとも行いに現れてこないではないか!」と言い、「行い」という一面だけで教会の資質を判断してしまったり、逆に「いろいろ活動しているけど、ちっとも祈らないじゃないか!」という「祈り」という一面だけで教会の資質を判断してしまったりします。果たしてそれが正しいのでしょうか?答えはズバリ「両方」大切です!!だからと言って牧師がいつも両方強調していたら言われている方が疲れてしまうので、ある時は祈りを語り、そしてある時は行いを語ったりするわけですね。

 もし教会に「祈り」が足りないと感じたならば、自分自身は、祈ってばかりいて「行い」があるだろうか考えるべきでしょう。もし「行い」が足りないと感じたならば、自分が行ってばかりいて「祈り」があるだろうかと考えるべきでしょう。何故ならば、私たちには自分の弱い部分を隠し、強い部分を誇ってしまう弱さがあるからです。聖書は一部ではなく全部が神のことばです。バランスのとれた信仰生活や教会形成がなされていくことを目指したいです。
プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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