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それだけじゃ足りない!?

 先日、県内のとある国道を走っていると、大きな電光掲示板で「ヘッドライトは上向きが基本」という表示がありました。それって間違ってはいないけど、絶対勘違いする人がいると思うんですよ!だって、その国道は常に車が走っているような幹線道路なので、ライトを上向きになんかしたらまぶしくてたまりません。でも、あんなにでかく表示されていると「上向きにしなければならないかな!?」と思ってしまうのではないでしょうか。もし注意を促したいのなら「対向車や前方に車がいない時はライトは上向き」とでもすればいいと思うのですが・・・

 そもそも、幹線道路でなくても、夜中とかで無い限りは、前に車が走っていたり、対向車がいることの方が圧倒的に多いですよね。確かに周りに車が走っていない時は、ライトを上向きにしないと、歩行者を見落としたりします。でも、だからといって「ヘッドライトは上向きが基本」だけ抜き出されても、「それだけじゃ・・・」と思ってしまいます。何故、上向きにしなければならないかの真意が伝わらないと思うのです。

 聖書は66巻で一つです。一つひとつが全部神のことばですが、その文脈や他の書簡との関係の中で理解されていくべきものだと思うのです。ところが文脈等を無視して聖書の一部分だけを取り上げ、強調してしまうと、何故そのようなことが語られているかがわからないままに誤った捉え方で信じてしまう危険性があります。

 例えば「妻よ、夫に従いなさい!」という御言葉を、夫が自分のわがままを通すために用いてしまうことだってあります。しかし、その前後のみことばを読むと、決してそのような一方的なものではないことが分かってきます。カルトなどは、このようにして、みことばを一部分だけ取り上げ、強調する傾向があります。聖書はすべてが神のことばです。自分の都合で従うべきものと、そうでないものを選り分けるようなことがないようにしたいものです。
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恵みの点検

私が自動車整備の仕事をしていた時、一番多い仕事が「車検」でした。大抵の自動車屋さんは、そうだと思います。なんせ法律で義務付けられてますからね。

そんな車検ですが、よく勘違いしている方が多くトラブルになることが多いのですが、それは車検に車を出すと、「必ず」車が調子よくなって戻ってくると思われてしまうということです。これは大きな間違いです!車検というのは、あくまでも24ヶ月「点検」です。つまり悪いところがないか点検をするわけなんです。だから、もともと調子のいい車がさらに調子よくなったりはしません。だってチューンアップする訳ではないですから。

 もちろん、調子の悪い部分があれば修理しますから、調子よくなるけど、中には「車検に出してからパワーが落ちた!」なんて言ってくる人もいます。そんなわけありません!!じつはそれも感覚的な問題なんですね。たとえばエンジンが低回転の吹けが悪くて、高回転だけ吹け上がるような症状だった場合、低回転のパワーがない分、高回転のパワーが目立ちます。しかし低回転が吹け上がるように修理をすると、パワーが均等になるのでパワーが落ちたように「感じて」しまうのです。実際には、加速力が上がっているということは言うまでもありません。

私たちの信仰生活は日々の恵みの点検は行なっているでしょうか?たとえ普段、特別な事がなかったとしても、点検をする事によって、普段当たり前と思ってることが神様の恵みであると気づくはずです。

また、苦しみの中にいる時は、普段当たり前と思ってることが、じつはそうではないと思う事ができると思います。しかし、その苦しみが過ぎ去ると、またその恵みに気づかなくなってしまう事もあります。普段から恵みの点検をして、神様の恵みを思いつつ過ごしていきたいと願います。

スーパークリスチャンは必要?

 先日、あるところからの帰り道の途中でバイクのハーレーの物凄い集団が集まっている場所がありました。某雑誌のイベントで全国から集まってきたそうです。次から次へとすごい爆音をたてながら(僕は結構好きですけど)、会場に入るバイクが後を絶ちません。

 ハーレーって「ドコッ!ドコッ!」て感じの重低音で独特の音がしますよね。何故、あのような独特な重低音がするかというと、あの排気量で二気筒のエンジンだからなんです。専門的な話になってしまうのですが、エンジンというのは一つのようで実は内部でガソリンを燃やす部屋がいくつかに分かれているんです。日本車で多いのが4気筒のエンジンでしょうか。軽自動車でも最低3気筒はあります。つまり、エンジンの中にいくつかのシリンダーがあって、それぞれがバランスよく活躍するというわけですね。ちなみにフェラーリやベンツなんかは12気筒なんていうのもあります。12気筒なんていうのは、もうF1の世界です。

 ところがハレーは1200~1500ccという大排気量にも関わらず、シリンダーが二つだけ!一つのシリンダーの大きさが軽自動車のエンジン全体ぐらいあるわけなんです。エンジンが燃えるスペースが大きければ、それだけ爆発も大きくなりますから、あのような迫力のある重低音が出るわけです。もう一つの理由はV型エンジンであるということもあるのですが、その話はまたの機会にしましょう。つまり、ハーレーのエンジンは普通の車のエンジンが3人がかり、4人がかりで行う仕事を一人でこなしているわけなんですね!いや~、すばらしい!もちろん、それぞれのエンジンに特徴がありますから、一概には言えないですけどね。

 さて、教会の話をしましょう。一応、このブログの主旨ですから(笑)。もし教会に一人のスーパークリスチャンがいて、その人が何もかもできたらすばらしいと思うかもしれません。しかし、神様は、現実にはそのようになさいませんでした。どんなクリスチャンであれ、長所と共に短所も持ち合わせています。もし、一人だけの力で教会が成り立っているというのならば、それはカルトの危険があるかもしれません。だって、一人ですべての教会の業を行うクリスチャンなんていないんですから。

 神様は、完全無欠のクリスチャンを生み出すことができる全能なるお方であるのに、そのようにはなさいませんでした。だって、そんな人いないでしょ!つまり、教会とは、欠けがある一人ひとりが互いに愛し合っていき、補い合っていき建て上げられていくのです。それが神様のみこころです。役割は違えども、「みんな」で建て上げられていく教会でありたいと願っています。

人に望むこと、望まれること

 個人的に前から気になっていることがあるのですが、自動車で道路を走っていると「歩行者用」の信号を守らない人が非常に多いということです。これ、すごく危険で、運転していて「ドキっ!」とすることもたまにあります。ただ横断するだけの歩行者の信号しかないところは、みんな自動車が来ないか確かめながら横断するのでいいのですが(本当はダメですけど・・・)交差点などの場合は「自動車用」の信号で判断して「まだ青だから」といって平気で、しかもゆったりと横断する人もしばし見かけます。

 このようなケースは特に交差点で自動車が右左折する時が危険です。普通は(というより必ず)歩行者の信号の方が自動車の信号より早く赤になります。だから対向車の往来が激しくてなかなか右折できない車や、歩行者の横断が多い交差点などは、この時間差があるから右左折できるわけなんですね。これを歩行者がみんなで無視されたら、車は永久に曲がれないか、自動車用の信号も完全に赤になってから信号無視して曲がるしかありません。でも強引に行くわけには行かないんですよね。そんなことして接触したら大変なことになりますから。

 でも結構「歩行者用の信号がもう赤になっているから!」といって勢いよく曲がってくる車も多いのです。だから「たとえ歩行者が信号無視しても自動車が気をつけるべき!」といくら訴えたところで、現実として、歩行者用の信号が赤になっていても歩行者に気を配るドライバーばかりではありません。それに法律では、たとえ歩行者の信号無視で事故が起きても、交通の弱者である歩行者は守られ、ほぼ確実に自動車の過失が大きくなります。でも同義的には信号無視した方が過失が大きいのは明白です。このような事故はどちらも被害者となるのです。もちろん自動車側も、よく言われるように「かもしれない」と気をつけることは大切です。

 基本的にはお互いの立場を考えることが大切なのではないでしょうか。免許を持っていない歩行者は自動車の立場をなかなか考えることをしません。あくまでも自分の視点です。「車が気をつけてくれるだろう」とか「自動車の信号はまだ青だ!」とか思ったりします(このことに関しては歩行者ばかりの責任ではなく、免許を持っていない人に対しての教育が必要だと思いますが・・・)。逆に自動車ばかりに乗るようになると、どうしても歩行者の視点で考えなくなりやすいのです。私は幸いなことに高校生の時、自動二輪の免許を取ったので、通学は自転車(+電車)に乗り、プライベートではバイクに乗るという生活をしていたので、両方の立場が自然にわかるようになりました。今は車での移動がほとんどなので、気をつけなければならないなぁと思わされています。

 教会ではどうでしょうか?「お互いの立場を考える」ということは大切なことなのではないでしょうか。それは自分達のわがままをゆるすための手段となってはいけませんが、「あの人はまだ弱いから信号無視をしてしまうかもしれない」と思うことが大切であり、また一方で「私の信号無視によって苦しむ人がいるかもしれない」と思うことも大切です。そのようにして互いが相手の気持ちを考えることにより、自然と教会の調和は保たれ、愛の共同体として成長していくことができるのではないでしょうか。


「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイの福音書7:12)

 「律法と預言者」とは聖書のみことばをさします。つまり聖書の示す真理であるということです。ちなみに相手に「悪意」がある場合は毅然とした態度で望むべきでしょう。それも相手のことを考えれば一番良いことであるのです。
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☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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