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道を示すもの

 先日、宣教区の先生方と胎内というところに行ってきました。ひたすら山道を車で行くのですが、何せ、本当に山の中といった感じで、はたしてこの先に建物なんてあるのかなぁ・・・と感じてしまうぐらい山の中でした。長野の山を思い出すなぁ・・・といった感じです。でもちゃんとありましたよ(笑)。山の中の宿泊施設なのですが、結構きれいで快適に過ごさせていただきました。そりゃ~そうですよ!担当の先生方がしっかり下見までしてくださったわけですからね。

 でも、誰も行ったことがないと本当に不安だったかもしれません。たとえ、私が行ったことのない、街灯一つない山道であったとしても、下見に行った先生方がいるから「必ずある!」という確信のもと、進んでいけるわけですね。これ、大事です!目的地の場所って、たとえ同じ道を行くのだとしても、たとえ自分が行ったことのないところでも、過去に自分達の中に行った事がある人がいるかどうかで進むべき道の信頼度って全く違います。

 私たちの人生の歩みも同じですよね。私たちの目的地は必ずしも示されていませんし、初めて通るような道も多いことでしょう。でも「信頼度」によって同じ道であっても平安であるか不安であるかが決まってくるわけです。私たちを導いて下さる神様は、進むべき道や目指す場所を知っているどころか、その道を創り、備えられる方です。たとえ分からない道筋であっても、一歩一歩、道を備えた方である神様に従って行く時、不安ではなく、平安が与えられ、必ず目的地に着くことができるのではないでしょうか。


「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)


 そういえば帰りに「昆虫館」というところに寄りましたが、生きた「ヘラクレス」って初めて見ました。ちょっと嬉しかったです。
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権威はどこから?

 先日の主日礼拝は両親が出席したのですが、礼拝説教を両親の前でするのは4年目にして初めてです。まぁ、緊張はしないのですが、複雑な気持ちでもあります。昔は逆に家や教会学校でみことばを両親から聞いてきたわけですからね。でも、講壇から語ることは、私のお話しというよりは「みことば」の取次ぎですから、余計な心配は無用だったのかもしれません。

 私は、講壇から語るときは「みことば」として語るわけです。だから、多くの人生や信仰の先輩方が目の前にいても語れるのでしょう。ただの私の考えに基づく説法だったら、そりゃ~緊張しますよ(礼拝説教が緊張しないわけではありませんが・・・)。だって、この世的には、大部分の方が私より人生経験豊富なわけですから・・・

 このことを逆に考えると、講壇を降りたら、ある意味、教会員の一人です。みことばを語っているわけではない普段の私の発言や考えは、他の教会員の方々と同じ高さであるべきだと思うのです。もちろん、牧師としての責任や指針を出していくことは大切であるという前提ですが、講壇から語ることとは違い、一つひとつの私の発言に必要以上の権威があってはならないでしょう。普段から必要以上の権威を振るっていると、あるいは自分の中にそのような誤った思いがあり、抑えていると、講壇から、みことば以外のことも語ってしまう誘惑に陥ります。しかし聞く人は講壇から語られる言葉は「みことばの取次ぎ」と思います。そうすると、普段の自分の言動にも権威を持たせることも簡単にできてしまいます。そして、さらに講壇で語られることが・・・その悪循環がカルトとなってくるのだと思います。

 講壇から語る言葉は、「みことば」を語っているという確信のもと、たとえ両親がいても、人生の先輩がいても、臆することなく真理を語らなければなりません。しかし、それはあくまでもみことばの権威によるものであって、牧師の権威によるものではありません。リーダーシップは大事ですが、講壇を降りた牧師の言葉は、 みことばの裏付けがあることは別ですが、あくまでも牧師という「人間」の言葉であることを心に留めていきたいと思います。

神からの召し

 昨日までバイブルキャンプの奉仕をさせていただきました。プログラムスタッフの奉仕をさせていただくのは久しぶりでした。参加したキャンパーと共に多くの恵みをいただきました。


09camp
キャンパーと奉仕者の記念撮影です。多くの奉仕者の方々に支えられたキャンプでした。感謝!


 さて今回のキャンプのテーマは「神からの召し」でした。講師のY先生から、「召されていること」とはどういうことなのかを語っていただきました。私たちは教会に導かれたのも、救われたのも、一つひとつの職業に就くのも、そして直接献身も、すべて神の召しによるものであるということを再確認することができ、感謝でした。

 先生のメッセージの中で印象に残ったことが、先生御自身が、ある働きをしたくて献身したけど、神学校の校長に「働きの内容を限定しているのであれば入学は許可できない」と言われ、神に、そのビジョンを一度お返しして委ねたというお話でした。その結果、神は自分の思い描いていたものとは違ったけど、応えてくださったということです。

 私にも同じような経験があり「本当にそうだなぁ」と思わされたことでした。直接献身とはいっても働きはさまざまです。牧師、伝道師、宣教師、神学校教師、牧師夫人、音楽伝道師etc・・・一人ひとりの思いが与えられていることでしょう。しかし、その思いは、思いとして、神にお委ねし、自らを明け渡さなければ、自分の思いとは違う道が与えられた時に、受け止めることができないでしょう。これは一般の職業であっても同じだと思います。私自身も、明け渡すことに抵抗があったこともありますし、自分の今の働きが、必ずしも思い描いていたものとは違います。でも、今の働きは、神が召してくださった働きだという確信はあります。


『私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」』(イザヤ書6:8)

 預言者イザヤは「私はこれをします!」と言ったのではないのです。ただ神に明け渡しました。例えば神に召されたと言っていながら「これ以外はやりたくない!」と思っていたならば、それは「召し」ではないのです。私のこれからの働きも神の召しに委ねていくことができるように祈っていきたいと思います。

 キャンプに参加したキャンパーも主の召しにしたがっていくことができますように祈ります。
 

自分の限界って?

 自動車にはターボ付の車と、そうでない車があります。最近はターボ付の車がすっかり減りましたが、私はターボ車の方が好きです。あの加速感がたまらないですね。分かりにくい方は、ジャンボジェット機の離陸の時のシートに押し付けられるような加速を想像していただければ分かりやすいと思います。それに、上り坂とかでストレスも感じませんしね。軽自動車ではターボ車が今でもたくさんあります。(エンジンの大きさに規制があるからだろうけど)ただ・・・燃費が悪いんです(泣)。

 そもそもターボの仕組みというのはどうなっているかというと、まず、普通の車は、ガソリンを燃焼させるための空気の取り込み量というのが決まっています。仕組みとして注射器で液体を吸い込むのと同じ構造です。だから注射器のシリンダーとピストンと同じように、エンジンも、大きさで大体の空気の総量が決まってくるわけです。ところがターボというのは、本来であれば、吸うことでしか取り込めない空気を、排気ガスの勢いを利用してファンを回して(タービンといいます)強制的にエンジンのシリンダー内に空気を入れてしまいます。そして、空気だけ多くてもしょうがないですから、それに見合う量のガソリンを余計に噴射するわけです。だから燃費が悪くなるんです。ちなみにジェット機も似たような構造です。

 さてターボが排気ガスの勢いを利用していると言いましたが、普通に考えるとアクセルを踏み込む→排気ガスの勢いが増す→ターボの勢いも増す→さらに排気ガスの勢いが増す→さらにターボの勢いが・・・となって際限がないのではと思うかもしれませんが、その通りです。そのままだと、あっという間にエンジンが壊れます。だから、コンピューターで一定以上の圧力がかからないように制御をしているんです。この制御を少しいじくってあげて限界圧を少し上げるのがブーストアップという改造です。私も以前それやってました。この限界の設定が結構難しいんですね。低くしすぎると十分にパワーが出ませんし、高くしすぎるとエンジンが壊れます(そうならないように普通はリミッターが付いてますが)。車種によっても限界が違いますから、それぞれに慎重な調整が必要です。

 さて、今回はずいぶんマニアックな内容になってしまったのですが、私たちが信仰生活を歩む中で、自らの限界を知りえないことも多々あります。ターボの制御がされていないように、ひたすら走り続け、倒れてしまう人もいます。逆に限界を低くし過ぎて、本来の能力を発揮できないこともあります。私たちは自分の「エンジン」の調整って以外にできないものです。その調整をなしてくださるのが神様なのではないでしょうか。まだまだ限界が遠いと思ったら、時に叱責を与え、試練を与え、私たちをパワーアップしてくださるかもしれません。ターボがかかったように勢いよく走る人がいたら、倒れる前にリミッターを効かせて警告してくださることでしょう。神様こそ私たち以上に私たちのことをご存知の方であるのです。


「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」(詩篇139:1~4)

一人ぐらいならOK?

 現在、長野の妻の実家に来ています。妻が出産を控え、帰省しているので、私もたまに行くようにしています。それにしても長野の夜は涼しい!雨が降ったせいもありますが、エアコンも扇風機もなく、窓が閉めきってありますが、全然平気です。

 今日は高速の休日割引で長野に帰って来たのですが(いや~、休日千円は本当に助かります。普通だと片道で5000円以上かかるので)途中で渋滞にハマり、一時間ぐらい余計にかかってしまいました。原因は休日割引目当ての車が多いということもありますが、一番の原因はマナー違反の車が多かったからでしょう。

 というのも、上信越道はある区間が一車線づづの対面交通になっているのですが、途中のICの周辺だけ二車線になっています(四ヶ所ぐらいあります)。一車線だと当然追い越せないので、二車線なった途端、みんな追い越しにかかります。

 まぁ、普段は何の問題もないのですが、交通量の多い日は話しは別です。マナーの悪い車は、だいぶ前から表示されている車線減少の標識を無視して追い越しをかけつづけます。そんな車が多発すると、合流地点で慌てて列に入ろうとする車が詰まって、渋滞を引き起こすのです。

 しかも、非常識な事に、最初の一回は「知らなかった」でいいかもしれませんが、そういう車にかぎって、残りの四ヶ所ぐらいでも同じことするんですよね。この渋滞はまだ車が流れていて充分に余裕があるうちに走行車線に戻れば起きない渋滞です。「自分一人ぐらいは強引に割り込んでも平気だろう」と言って、みんなが同じことをしてしまったんですね。

 アカンは神様に全てを聖絶するようにと言われていたのに、こっそりと自分の為のものを取り分けてしまいました。アナニヤとサッピラは自分たちの土地を売った代金の一部を、全てであると偽って神様にささげました。この人たちには神様からの大きなさばきがくだります。彼らの共通していたことは「自分一人ぐらいは」と考えていたことではないでしょうか。

教会において「自分一人ぐらい」といって、みんなが同じ過ちを犯したら主の教会は成り立ちません。それに神様の御前には「大勢の中の一人」ではなく「神と自分」という一対一であるのです。ボンへッファーは「共に生きる生活」という本で「誰かがいれば不安であるとか、一人でいれば不安であるという者は注意が必要だ」と述べています。「自分一人ぐらいは」ではなく、常にキリストのからだの一部であり、同時に神様との一対一の関係であるということを心がけていたいです。
プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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