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教会はキリストのからだ

 久しぶりに更新します。
 今週のはじめに実家に帰りました。妻が里帰り出産を控えていたからです。あっ、ちなみに私と妻は郷里が一緒なので、お互いの実家に寄ることができるのです。よく夫婦の実家が違う県だったりすると、1年おきに交代でお互いの実家にいったりするそうで・・・お互いの実家が近いと助かります。しかも、高速道路を使えば2時間で着く距離なので、非常に便利です。

 さて、私達夫婦の故郷は長野県ですが、私達の出身教会も長野県の同じ教会です。私達にとっての故郷の教会であるわけです。しかし、出身教会へ帰るには、当然日曜日に行かないと、会えるのは牧師達ぐらいです。でも、休みの日に実家に帰るのとは違い、出身教会へ「たった2時間だから・・・」と言って、気軽に日曜日に帰るわけにはいかないでしょう。帰るとしたら、休暇の時か、何か特別な出来事があったときぐらいでしょう。

 何故、気軽に帰るわけにはいかないかというと、もちろん私は牧師なので、自分が遣わされている主日礼拝をそうそう簡単に穴をあけるわけにはいかないという責任もあります。でも、じつはそれ以上に大切なことは、牧師だからではないのです。それは教会が「キリストのからだ」であるからです。つまり、わたしが「キリストのからだ」というこの教会に遣わされている以上、わたしは、そのからだの器官の一部であるわけです。たとえば週代わりで、違う体の臓器になんでなれないですよね。私はこの教会というキリストのからだの一部として神様によって導かれたわけで、遣わされたところで精一杯神様に仕えるべきだと思うのです。

 もちろん、引越しで教会を移ることや、旅行で違う教会の礼拝を守ることだってありますが、そういうことが問題と言っているわけではありません。「転籍を絶対に認めません!」ということでもありません。あくまでも「キリストのからだ」という、どこかの教会に重荷を持ちながら、他の教会に重荷を持つべきではないということなんです。つまり、遣わされた場所で仕えるということが大切なんです。だから私は、たとえ私が過去に出身教会の一員であったとしても、その教会の働きに重荷を負ったり、口を出したりすることはしません。だって、それはもう「違う」キリストのからだなんですから。


「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(Ⅰコリント12:27)
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

 ちなみに聖書に記されているこれらの手紙は「実際に存在する一つひとつの教会」に宛てた手紙です。私たちがやがて一つとされるクリスチャンすべてが含まれる御国の教会のことではありません。だって、天国に行ったら問題なんて何一つないんだから手紙で問題の指摘をする必要がないんです。
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霊的健康法

 以前、私が神学生になる直前、愛車スープラを維持費等の理由で仕方がなく廃車したお話はしましたが、地方故に、やはり車は必要です。でも「4km/ℓハイオク仕様!」なんて車を所有するわけにもいきません・・・そんなわけで祈っておりましたら以前働いていた職場から「フェスティバ」という車を超格安で譲っていただきました。この車なら1300ccだし、軽いし、燃費もいいのでこれは早速、祈りが叶えられたと感謝したことであります。


festiva
 こんな車です。私が実際に乗っていたのは紺色でした。この車、「フォード」なのですが、周りから「この車どこのメーカー?」と聞かれ「フォード」と答えると  「え!輸入車なの!?すごい!」と言われます。なのでいつも説明が大変でした。何の説明かというと、このフェスティバはフォード製とはいっても「日本フォード」なんです。つまり、中身はフォードと提携を組んでいる「マツダ製」なんですね。まぁ、国産車と思ってもらった方が早いです・・・


 この車、私が乗り始めた時は新車から7年経っていたのですが、走行距離はなんと3000km弱!「これはすごい!新車同然ではないか!」と思ってしまうところですが、実はその走行距離の少なさに問題があるんです。それは何を意味するかというと、今まで年間数百キロづつしか乗っていなかったということです。つまり「運動不足!」なんです。今の私と一緒だ(笑)・・・

 「自動車に運動不足なんてあるのか!?」と思うところですが、あるんです!例えば、走行距離が少ないってことはエンジンを高回転まで回すことはほとんどなかったということです。人間と一緒で、普段曲げない間接は曲げにくくなるのと同様に、普段、高回転域を使わないために、高回転が全く吹け上がらないエンジンになってしまっていたわけです。上り坂や高速道路の加速などで、えらい苦労しました。

 あとはマフラーですね。走行距離が少ないということは、一回の運転時間が短いということです。それは何を意味するかというと、ガソリンは燃えると「水」と「二酸化炭素」になります。しかし「水」の方は、ある程度の時間、エンジンがかかっているとマフラーが熱くなり、蒸発して水蒸気となって排気されてしまいます。しかし、マフラーが熱くなる前にエンジンを止めるような短距離運転ばかりを繰り返すと、水が水蒸気とはならず「水」のままマフラーの中に残ってしまいます。その残った水の影響で、錆びやすくなるということです。私が乗っていたフェスティバも見事に1年半でマフラーが錆びてちぎれました。そんなわけで自動車の健康のためにも普段からある程度の運動がいるわけです。

 私たちの信仰生活も運動不足になりがちです。霊的運動不足に陥ると、何か急激な運動が必要な問題にぶつかった時に動けなくなってしまいます。普段からみことばを読み、祈り、賛美し、奉仕し、交わり等を持つことによって、霊的健康を保つことができます。私たちは信じることによって救われました。しかし、救われてはいるけど不健康なクリスチャンではなく、健康的なクリスチャンでありたいです。


「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ人への手紙3:16)

 霊的運動も、肉体と一緒でその人に合った運動というものがありますから、無理は禁物ですよ!


 ちなみにフェスティバは、普段から意識的にエンジンを回してあげて運動不足を解消したら、元気に走る車になりました。

成長の過程

 昨夜は、神学生時代にお世話になった方のお宅に招かれ、共に交わりをしてきました。この方は私たち夫婦が二人ともいろいろとお世話になった方です。私は神学校が新潟でしたので、知り合いの先生方は、ほとんど新潟の方々です。そのような意味で東京にいる3年間は、新たにお世話になった先生方は多くいますけど、神学生時代にお世話になった先生方と交わる機会はほとんどありませんでした。今回、新潟の地に導かれたのは、本当に神様の不思議な御業です。

 思えば、牧会の事など何も知らない神学生の駆け出しの頃はいろいろと至らない部分があり、多くの先生方に助けられ、迷惑をかけたなぁと思わされます。(今も駆け出し牧師ですけど・・・)今振り返ると神学生ということで、自分は何かを悟ったつもりで先生方や周りを見たり言ったりしたけど、いざ教会の働きに遣わされた時、「何故、あの時、あんなことを言ってしまったのだろう・・」と思うところもあります。もちろん「あの時、あのことを貫いておいて良かった!」と言うこともありますけどね。

 神学校での学びをするということは知識の上での落とし穴があります。知識は学んだ分だけ、すぐに身についていきます。しかし、献身者としての信仰姿勢は自分が思ったようにはいかないわけです。そうなると信仰の部分だけが置いてけぼりをくって、知識だけが先行してしまう恐れがあるわけです。だからこそ、多くの人に助けられたなぁと振り返ると思うわけです。大抵は、信仰の成長のほうが知識よりも遅れますから(笑)・・・だから駆け出し牧師の私としても、そのことは忘れないようにしたいと願っています。

 でも、本人ばかりではなく、周りもそのことを踏まえるべきなのかなぁと思うのです。特に神学生として初年度の場合はそうです。今は7月ですが、神学校1年生の人たちは、つい3ヶ月前まで一般信徒として過ごしてきたわけです。そのような人たちに、献身者としての信仰姿勢にいきなり多くを求めるのは違うような気がします。もちろん召命はなければぐらつきますし、学んだ分だけの知識は身につきます。しかし、その心構えやスキルは、神学生として歩む中で少しづつ形成されていくものなのではないでしょうか。それは献身者としての歩みばかりではなく、クリスチャンとしての歩みをなしていくことにも同じ事が言えます。「あなたもう洗礼を受けたんだから!」と言って、いきなり多くの重荷を背負わせると、担いきれずに潰れてしまうことだってあります。神学生として最低限求められることや、クリスチャンとして絶対にはずれてはならない部分と言うものはあります。しかし一人ひとりに成長の過程があるのです。

 でも、一人ひとりの歩幅は違っても、前に進まなければ成長はしません。本人は成長を願っていきつつ、周りは見守って(何も言わないということではないですよ!)、一人ひとりの成長に合わせた導きをしていくべきではないでしょうか。


「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ人への手紙3:16)

 一人ひとりが今立っている場所は、すでに達していて主が受け入れてくださっていることを私達が受け止めつつ、しかし、そこはゴール地点ではなく、さらにそこをスタートラインとして一歩一歩進んで行くことができるようにお互い励まし合っていきたいものです。

それぞれの「常識」

 いよいよ夏に近づき、暑くなってきましたので涼しい話題をしましょう。ずばり「雪」です!私が神学生時代に1年間だけ通っていた教会は豪雪地帯でした。雪国育ちの私として雪道の運転自体はわりと慣れていたのですが、この土地の積雪量は「聞いてないよ~!」という感じの凄さでした。


 こんな感じです。
 当時、私が乗っていた車が写っていますが、車と雪の高さを比べていただければ、その積雪量がわかるかと思います。

 ちなみに、この雪の壁は除雪をして積み上げたものではなく、マジでこの高さまで一面積もってるんです。しかもこれはまだ少し溶けたほうで、本当はもう1メートルぐらい積みあがってました・・・


 そんなわけで、この年の冬の教会の往復は毎週緊張しまくりの運転でした。教会付近の道路はわりと除雪してあるのですが、途中の道が日曜の朝ということもあり、除雪してないときもしばしば・・・軽自動車って乗用車のわだちにハンドルが取られて、結構きついんですよね(泣)。でも、私は雪国育ちなのでまだマシなほうです。このようなところに雪道の運転経験がないドライバーが来たらさぞかし恐怖でしょう。雪のない地域の人とそうでない人とは結構感覚が違うんですよね。

 以下は東京のとある場所での、東京暮らしが長い方と私との会話のやりとりです。その日は東京としては珍しく、道路がカチンコチンに凍っていた日でした。当然、ノーマルタイヤのままです。

 東京の方「これだけ凍っていると、足元滑るよね」
     私「そうですね」
 東京の方「○○さん、今日来れるかな?」
     私「難しいかもしれないですね」
 東京の方「ねえ、○○さんを「車」で向かいに行ってくれない?」
     私「えっ!(少し耳を疑った)」
 東京の方「どう?」
     私「(心の叫び)車の方がよけい危ないじゃん!!」
     私「あの~、ノーマルタイヤのままなので、危険なのでやめた方がいいと思います。」
 東京の方「そう、わかった」
     私「・・・・・・」

 雪道を雨のような感覚で思っている人って結構多いんですよ!まぁ、東京のような雪がほとんど積もらない地域の人たちに雪国の常識を押し付けるというのも酷なことでしょう。雪国の人が上記のような発言をしたら問題ですが・・・逆に東京でずっとスタッドレスタイヤだったら危険です。スタッドレスって溝がたくさんある分、道路との接地面積が少なくなるので、実は、乾いた道路ではノーマルタイヤよりよくスリップします。雪のない地域ではその土地としての常識があるわけです。「豪雪地帯」と「雪のない地域」・・・「ただの雪国」で育った私としては両方の常識を教えられたわけです。

 教会には秩序が必要です。教会ならではの常識も存在します。でも、教会にほとんど来たことのない人に、いきなりそれを押し付けることは出来ません。私たちは、そのことを踏まえて受け入れるべきです。受け入れた上で、教えてあげればよいわけです。先ほどの会話、「ノーマルタイヤでアイスバーンなんか走れるわけないでしょ!何考えてるの!」と言ってもいけないし、「分かりました車を出します!」なんて言ったら事故ります。「受け入れた」上で「教えてあげる」・・・この2つのバランスが大切ですね。

教会は大切  その2

 昨日、2回目のキャンプのミーティングがありました。前回同様、教会の大切さが話題になりました。私が担当するキャンプは、主に中高生対象なので、丁度、自らの意思で教会に来るか来ないかということで揺れ動く時期かもしれません。

 私が子どもの頃を思い出します。私は両親がクリスチャンであったので、日曜日は強引に教会に連れて行かれました。・・・というよりも、あまりに小さな頃からだったので「強引」という感覚はなく「嫌な時もあるけど、行かなくてはいけないんだ!」という感覚でした。丁度例えるなら学校のようなものです。子どもへの導きは、一人ひとり何が最善か異なると思いますが、私には、当たり前と思うことが最善であったと今は思えます。

 さてここからはあくまでも「私個人の意見」ですが、子どもの頃から、本人に教会へ行くかどうかを決めさせることは、正常な判断が難しいのではないかと私は思うのです。(もっとも、両親が教会へ行く場合は小さな子どもだけを置いていくわけにはいかないですけど・・・)例えばですけど「おもちゃ」と「教会」とどっちが大切?と子どもに質問したら、普段から教会に通っていない子は「おもちゃ」と答えることでしょう。

 一般的に、子どもが小さい頃は、食事、洋服、本、おもちゃ等、大人が何を与えるべきか、与えてはならないものかを判断していきます。これは信仰においても同じ事が言えます。中高生ぐらいになってくると、自らと神様との関係で判断していくようになると思いますが、まだそれが分からないうちは、大人が正しい方を提供するべきだと思うのです。「信仰の強制は良くない!」とよく言われますが、あくまでも大人ができることは、教会に子どもを連れて来て、信仰を「提示」することです。それは「強制」ではありません。「提示」しないと、強制するどころか、選ぶことすらできません。私たち大人は、子どもが良いものを選び取ることが出来るように、良いものを提示するべきではないでしょうか。それが「教会に行く」ということになってくると思います。

 中高生になってくると大人の意思だけでは子どもは動かないかもしれません。それはある意味、「時」が来ていないからかもしれません。しかし、「時」が来たときに選び取ることが出来るように、子どもを教会に導いて、種を蒔くことが大切なのではないでしょうか。
 
プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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