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「バランス」は大切

 昨日は久しぶりに、と○の潟公園に行ってきました。妻が妊娠中故、ある程度の運動も兼ねて行きました。私も運動が必要な体型なのですが(笑)・・・たぶん4、5年ぶりぐらいに行ったのですが、やっぱり広々としていて自然も豊かなのでいいですね。この春まで住んでいたところには、なかなかこのような場所がないんですよ。行こうと思ったら少し遠出をするか、近くだと有料だったりします。

 でも、都心ならではの良さもあります。それは、ほとんどの道路に歩道が独立してあるんですね。そういった意味では、どこでも気楽に歩けます。私の自宅の周辺はなかなか歩道が独立してなくて(まぁ、みなさん自動車で移動されますからね。私もですが・・・)、安全面でも広い公園などに行ったほうが気楽に歩けるわけです。でも基本的には、歩行者と自動車が共存しているわけですね。世の中全部が歩行者専用とも自動車専用ともいかないわけですから。

 「教会」にたとえるとどうでしょうか。「この世」との共存がいえると思います。これを避けることはできません。たまに歩行者天国があり、安心して歩くけるような場所もあります。高速道路のように歩行者が決して踏み入れてはならない場所もあります。しかし基本的には「人と車」の共存が」あたり前であるように、「教会とこの世」の共存も当たり前の姿であると思うのです。

 ずっと歩行者天国にいるわけにもいきません。かといって歩行者進入禁止の高速道路に入ると非常に危険です。教会は喜んで神を礼拝するところであり、世の光として人々に福音を宣べ伝えていくところです。ずっと教会にこもり世捨て人のようであってもいけないし、「高速道路」に進入してしまい、さまざまな誘惑に陥ってしまうことも避けねばなりません。ようは「バランス」でしょうか。バランスを保つ信仰生活は、結構大事ですよ・・・と神学を学んだ先生から教えられたことがあります。でもその通りですね。

 
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教会は大切

 この夏、バイブルキャンプのプログラムスタッフの奉仕をさせていただくことになりました。昨日、そのキャンプのミーティングがありました。私はキャンプのプロスタをやるのは神学生以来なので、期待と共に不安もあるのですが、最善を尽くせればと願っております。

 ミーティングの中で、とある話題から「教会や礼拝って大切だよね!」という話になりました。そこに集っているプロスタの3人はみんな牧師なので当たり前と言えば当たり前なのですが・・・でも大切なことですよね。

 子どもたちが小学生の頃は喜んで(あるいは親に連れられて)教会学校の礼拝に来ていても中高生になってくると部活や勉強、友だち等、さまざまな課題が生じてきます。何よりも中学生ぐらいになると自らの意思で判断するようになるでしょう。「神様は信じてはいるけど、別に教会にいかなくても・・・」というケースは以外に多いものです。

 しかし信仰と教会を切り離して考えることは可能でしょうか?新約聖書に使徒パウロが記した書簡がいくつかあります。いくつかというよりも非常に多くあります。そのほとんどは実際に存在する諸教会に向けて書かれた手紙です。パウロは教会の問題を大胆に指摘しつつも、同時に教会の大切さも語っています。聖書はそれだけ教会の存在が大切であるということを示しています。

 私たちは何をもってイエス・キリストを信じたでしょうか?人から聞いたからでしょうか?もちろんそれもあるでしょう。しかし、そのもとはすべて聖書からきています。私たちは聖書の示す福音を信じています。であるのに聖書の示す教会だけを信じないわけにはいきませんよね。

 そんなわけでキャンプに集った子どもたちが教会の礼拝につながってくれればと私は強く願っています。

霊の糧

 先週は、所属教団の研修会があったり、知人の結婚式があったりしてなかなか更新できませんでした。長野や茨城に行ったので先月取り付けたETCが大活躍です!特に茨城の往復は土曜日だったのでETC代の元をこれで取った!という感じです。

 先月取り付けたETC車載器、「セットアップ」というナンバー等の車両の情報を入力する作業は専用の機械がいるのでカー用品店に依頼しましたが(何かセコイような・・・不正を防ぐためなので仕方ないような・・・)、あとは自分で取り付けました。以前ならば20~30分で終えるであろう作業に一時間もかかってしまいました(泣)。実は私、神学校に入る前は自動車整備士だったのですが、かれこれ現場を離れ8年ぐらいが経つでしょうか・・・普段やっていないとやはりいざというときにその衰えは否めません。

 みことばは「霊の糧」と言われます。「別に普段聖書を読まなくてもどうってことないじゃない!」と思うこともあるでしょう。確かに普段はそうであるかもしれません。しかし、いざというときこそ普段の蓄えが必要となるのです。何か問題が生じたとき、苦しいとき、決断を迫られるとき・・・など、普段みことばを蓄えているからこそ、みことばから導きを得ることができるのではないでしょうか。

 また、先ほどのETCではないですけど、いざみことばが必要となった時に、その場で聖書を開いてもなかなか難しいものです(与えられる時もありますが)。何よりも、それでは、自分ありきで自分で合うみことばを探してしまう誘惑もあります。みことばからまず示されるためには、普段のみことばの蓄えが大切なのではないでしょうか。

「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」(申命記6:6)

 もちろん、困難にぶつかった時、みことばから指針をいただこうと聖書を開くことは大切です。そのことと共に、普段からの蓄えも大切だということなんですね。

戒めるべき?励ますべき?

 20代前半の頃でしょうか、MR2という車に乗っていた時期があります。実は、この車は、雨の山道でスリップして廃車になってしまったという思い出深い(泣)車なんです。

mr2←こんな車です。

 この車、名前の通り「MR」という駆動方式で、エンジンが運転席のすぐ後ろあたりにある後輪駆動の車なんです。なので当然、後ろ半分のほうが重たいので一度後ろのタイヤがスリップしたらあっという間にスピンしているという感じの車なんです。時計の振り子を想像していただければ分かりやすいかと・・・

 ある雨の山道、アクセルを踏み込んでターボがかかった瞬間にタイヤがスリップして、あっという間にガードレールに・・・(泣)タイヤが結構減っていたんですね、実は。自らの甘さが招いた事故だったと言うわけです。

 山道とはいっても昼間ですし、わりと交通量の多い場所だったので、すぐに何台かの車が止まってくれました。当時は携帯電話を持っている人が少なかったんですけど、親切にも携帯電話をもっていた方が警察やレッカーなどを手配してくださいました。当時はまだ携帯の通話料は結構高かったと思うのですが、本当に感謝でした。

 そのようにして気遣ってくださる方が何人かいたのですが、レッカーを待っていると一台の車が通りかかり、止まったと思ったら窓があいて「スピード出してたんでしょ(微笑)!」と一言いってそのまま走り去っていったオバチャンがいました。あくまでも「当時」の心境ですが「ムカ~!自分の過失だってことぐらいわかっているよ!」と思ったことでした。そんなわけで、連絡をとってくださった方々などが余計あたたかく感じたことであります。

 私たちの兄弟姉妹が過ちを犯してしまった時はどうしたらよいでしょうか?もちろん、その過ちを自覚していないのであれば、戒めることも大切でしょう。しかし、中には、その自らが犯した過ちを十分すぎるほど自覚している人もいます。その人は原因も十分に分かっているはずです。なのに「あんなことしてたから、過ちを犯したんだ!」といっても何の意味があるでしょうか。そのような人には、罪の悔い改めを促すと同時に慰めや励ましが絶対に必要です。私たちは、自分がどうしたいかではなく、兄弟姉妹が神の前に立ち返るには何が最良であるかを考えなければなりません。一人ひとりにあった導きが大切ですね。


「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」(Ⅰテサロニケ5:14)


 ちなみに事故当時、私はシートベルトをしていたこともあり全くの無傷でした。シートベルト大事です!!!

ひとつのからだ

 今日は地域のコンサートがありました。コンサートといっても発表会形式で、多くの方々が音楽を披露してくださいました。私たちの教会の有志も発表させていただきました。

 このコンサート、発表会形式とはいっても、ステージと客席が同じ高さで(実際には高低はありますが・・・)、「サロンのような雰囲気」がモットーで、プロでも何でもない私にとっては楽しく参加させていただいたことであります。

 このコンサートのモットーが示すように地域の多くの方々が、楽しみながら様々な楽器を用いて曲を奏でてくださいました。歌やピアノはもちろんのこと、ギター、サックス、バイオリン、オカリナ、大正琴etc…実にさまざまな楽器が登場しました。私たちはもちろん賛美を数曲歌わせていただいたのですが、クリスチャンの方はごく一部だと思うのですが、皆さんが温かく聞いてくださり感謝でした。これもこのコンサートの雰囲気のなせる業でしょうか。

budounoki
当教会の賛美チームです。私以外の方々も写っているので、すこしぼやかしてあります。あしからず。


 コンサートで皆さんがそれぞれの賜物を用いて歌を歌い、また客席の皆さんもそれを喜んで温かく聞いている姿を見るとき、教会のあるべき姿を思わされたような感じがしました。教会は「キリストのからだ」であるとよく言われます。一人ひとりが違う役割を担っていて、自分とその役割が違うからといって責めるようなことはせず、逆に互いの賜物を用いながら、補い合っていく・・・これこそキリストのからだなる教会の働きではないでしょうか。

「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ人への手紙12:4-5)

 あっ、でも「目」が「聞くこと」は出来ないけど、「見える目」なのに見ないとどこかにぶつかってしまったりして他の部分が傷つきます。「口」が見ることはできないけど「話せる口」なのに話さないと、そのからだ全体の遺志が伝わりません。誰かと同じことをなす必要はないかもしれませんが、神様から与えられている自分の役割を果たすことは大切なことですね。
プロフィール

☆ヤマちゃん☆

Author:☆ヤマちゃん☆
車・バイク好き牧師

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